今年の連休は大分を旅してきたっス。
大分県にかつて存在した宇佐・大分・佐伯の3つの海軍航空隊跡を2泊3日・
58時間の滞在で巡り、戸次基地跡や、さらに別府観光なども楽しんでしまおう、
という無謀な?計画であります。
羽田から1時間半の空の旅♪
↓レンタカー借りて空港から国東半島を北西に突っ切り、
直で宇佐へ向かいました。まずは宇佐神宮で参拝し、旅の安全を祈願しました。
特攻隊員も数多く参拝した場所です。
そしていよいよ、前から来たかった憧れの宇佐海軍航空隊を巡りました。
宇佐海軍航空隊の沿革であります。
1936年(昭和11 年)ロンドン軍縮条約の期限切れとともに、海軍は戦備の大増強を画策し、通称「マル3計画」を立案する。この中に14個航空隊の増設案が盛り込まれ、爆撃機・攻撃機搭乗員の訓練部隊のひとつとして、大分県宇佐郡柳ヶ浦村に飛行場を建設し、航空隊を設置することが決定された。
宇佐の地に航空隊が作られた理由として、周防灘に面し洋上爆撃・雷撃訓練が容易なうえに、呉鎮守府にもほど近く、航空母艦を招いての発着艦訓練も頻繁に実施できたことや、山が低く気流が良いこと、広い田園風景が広がり、傍らを流れる駅館川の清流や国の保護をうけた格式高い神社である宇佐神宮も近くにあり、練習航空隊としての教育環境は最適であること、地価が安かったこと、などがあげられている。
そして昭和14年10月1日、宇佐空は開隊された。開隊式には柳ヶ浦村民の多くが招待されて式典が挙行され、艦攻(艦上攻撃機)・艦爆(艦上爆撃機)による祝賀飛行が行われた。支那事変(日中戦争)に従軍したベテラン搭乗員たちが操るアクロバット飛行はこの日のハイライトで、その妙技に招待客は大感激。帝国海軍栄光の一コマであった。
練習航空隊として発足した宇佐空は、霞ヶ浦海軍航空隊などで中間練習機の教程を終え、仕上げの教程を履修するためのところであった。ここで訓練をうけた兵士たちが戦地へ飛び立っていった。
しかし昭和16年に太平洋戦争が始まり20年に戦局が逼迫してくると教育訓練基地だった宇佐空は、海軍特攻基地へと変貌していく。敗色濃くなった20年4月以降、同年5月5日に宇佐空が解隊するまで特別攻撃隊が計5回出撃し、百数十人の搭乗員が祖国のために散華した。
宇佐空、といえば自分的には下の2冊。
この大好きな2冊を読んで宇佐に来たくなったのでした。
空母艦爆隊―艦爆搭乗員死闘の記録 (光人社NF文庫)/山川 新作

¥760
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激闘艦爆隊 (朝日ソノラマ 文庫版新戦史シリーズ)/小瀬本 国雄

日本海軍艦爆搭乗員の山川新作飛曹長、小瀬本国雄飛曹長はともに
宇佐空にて実用機訓練を受け、開戦から終戦まで戦い抜きました。ふたりとも
操縦教員として昭和18年初夏、つかの間の宇佐空での内地勤務で後輩の教育指導にあたり、
その後ふたたび戦地へ向っています。
そして宇佐空は、最初の特攻 関行男大尉、“最後の特攻”中津留達雄大尉が
艦爆の実用機訓練を共に受けた場所でもあるそうです。
宇佐空は艦爆搭乗員の揺籃の地なんですね。
さてさて、基地跡へ。まず来たのは滑走路跡。
下の写真の道路は昔滑走路だった場所です。滑走路は現在の道路より広く
幅80メートル、長さ1800メートルありました。
戦後にコンクリートが剥がされて元の田んぼに戻されたそうで、
滑走路の面影は今は全くありません。
車が途切れるのを待ってセンターラインからの写真(^_^;)
滑走路跡に建つモニュメント。モニュメントは道路の南北端に二カ所あり、
帽振れで特攻機を見送った場所と言われています。こういったモニュメントでも無いと、
かつては滑走路だったなんて全く想像つかないくらい面影なしです。
次に近くの城井1号掩体壕へ。
掩体壕とは航空隊の飛行機を敵の攻撃から守るために造られた格納庫です。
宇佐市には11個の掩体壕が現存しますが、多くは民家の納屋として使われているようです。
城井1号掩体壕(じょういいちごうえんたいごう)は戦後は放棄され、
なんと平成9年(1997年)ごろから市が史跡として整備するまで、放置だったそうです。
忘れられていく戦争の悲劇を戦争を知らない世代に伝えるために、
現在は周辺地を含め市が買い取って史跡公園として整備されています。
↑後ろからみた掩体壕。
コンクリートの上に盛り土をして芝草が植えられていました。
空から見るとただの小さな山の様に見えます。
掩体壕が宇佐に造られ始めたのは昭和18年春ころからで
近郷の中等学校、高等女学校の生徒たちも勤労動員令により作業に加わりました。
草を植え付けるのは女学生の仕事だったらしいです。
掩体壕の中…
国東沖から引き揚げられた零戦のエンジンが置かれています。
特攻隊の碑。宇佐航空隊で編成された特別攻撃隊の出撃は、
4/6、4/12、 4/16、4/28、5/4 の5回。81機、154名が出撃しました。
宇佐航空隊では、「宇佐八幡」にちなんで、隊名に「八幡」の文字がつけられました。
「八幡護皇隊」・「八幡神忠隊」・「八幡振武隊」等。
途中買った月桂冠をお供えし手を合わせました。
写真は八幡護皇隊の特攻隊員たち。
掩体壕の脇に立てられた鎮魂碑。
それぞれの石柱には、俳句などが刻まれています。
すぐ横にある城井二号掩体壕。物置きとして使用されていました。
手前のネギ畑がなんとも…。
森山地区の中型掩体壕。一式陸攻を格納したらしく巨大です。
高さ9メートル、幅40メートル、奥行き23メートルもあり、写真ではわかりにくいですが
隣接する民家の二階より高く、なかにはさらに小屋が建てられていました。
小さな掩体壕は民間人が造りましたが大きなものは軍が造ったそうです。
誘導路跡。
この道は、飛行機が掩体壕から滑走路へ出ていく時の道(誘導路)で、
その跡がそのまま道になったものです。今は、その中央部に桜の木が植えられています。
ここを行き来した「一式陸上攻撃機」の両輪の幅(約6メートル)とほぼ同じ道幅。
宇佐海軍航空隊へ その2 へ続く