宗教に熱心な人たちは「救われたい」と良く申されますが、

 

救われるという事はどういうことだと本当に知っていられる人が少ないのであります。

 

 貧乏の人が救われると申しますれば金持ちにしてもらうことだと思っているでしょう。

 

病人の人が救われると申しますれば病気を治してもらうことだと思っているでしょう。

 

監獄にいる囚人が救われると申しますれば獄舎から解放される事だと思っているでしょう。

 

そうしますと、金があり、健康であり、環境にも屈託のない人間はもう救われているのであるか、

 

もう救わないでよいかと申しますれば、決してそうではないのであります。

 

救われるという事は、外界に善きものが整う事ばかりを言うのではありません。

 

外界に善きものが整うという事も救われるという事の一種ではありますが、

 

宗教的に言う 「救い」 とは別の事であります。

 

宗教的の救いと申しますのは、人間が神そのままの自由自在の実相を実現する事であります。

 

 人間が自由自在を得る道は、外界から進めて行きますと、

 

学問ある者は学問なき者よりも外界を支配する方法を知っております。

 

知恵ある者は知恵なき者よりも一層外界を自由にすることが出来ます。

 

金ある者は金なき者よりも一層外界を自由にすることが出来ます。

 

しかし、これらは我らにある限られた自由を与えるのみであって、

 

根本的にわれらに自由を与えるものではありません。

 

学問ある者は学問にとらわれ、知恵ある者は知恵に囚われ、金ある者は金に囚われ、

 

自由は外界から与えられると思っていたにもかかわらず、なかなか思うように自由は与えられず、

 

医学盛んにして病気増え、知恵発達して戦争の惨禍は増大し、

 

財宝多く生産されて、貧しき者多いというようになっているのであります。

 

 だから外に向かって自由を得る事が出来るのは一局部的な限られた自由であって、

 

根本的な自由は、そうゆう色々の智慧才覚で得られるものではないという事が解かるのであります。

 

そこで、この全面的な自由は、何処から得られるかと申しますと、それを与えるのが宗教の救いであります。

 

 では、宗教的救いというものが何処から得られるか、

 

それは宗門をたたいたり、教会を叩いたりしても、必ずしも得られるに決まってはいないのでありまして、 

 

「自分」 というものの 「実相」 を叩くことによって得られるのであります。

 

 「実相」 と言えば何であるかと申しますと、

 

神がわれらを神そのままの顕現として創り給いしままの 「本当の相」 なのであります。

 

その本当の相は、うつりかわるわれらの肉体的存在

 

ーー五官的存在

 

ーー病み老い朽ち果てる物質的存在を言うのではないのです。

 

我らの五官的存在はわれらの本当の存在ではないのであります。

 

 「本当の自分」 というものは金剛不壊な火にも焼けず、水にも溺れぬ

 

神に創られたままの神の子なる実相が自分なのです。