日々是好日(195) | 自灯明寺

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釈 正輪 オフィシャルブログ


【釈正輪メルマガ12月2日号】日々是好日

(2014/12/2配信)


【久遠の仏】
 
 師走の候
 
 早いもので年の瀬となりました。(凡そ15日を過ぎた頃には、年の瀬が押し迫るや押し詰まるなどといいます。冬至が過ぎてからは言いません。)皆さんにとってこの一年はどのような年でしたか。私は昨年に続き、大きな節目の年であったように思います。
 
 今年も檀信徒の方や多くの皆さんから相談を受けました。世の中がいかに様変わりしようが、次々にやってくる人生苦悩の波は果てしないからでしょう。人は苦しむために生まれてきたのでしょうか。そうではありませんが、しかし苦難の人生を生きなければならない人が多いこともまた事実です。
 
 そこで今回はお釈迦さまの説かれた『真実の仏教』をお話し致します。
 
 今年の春、檀家のMさん(60歳)が久しぶりに私を訪ね寺に来られた時、Mさんの容姿を見て私はとても驚きました。私の知るMさんは背筋も真っ直ぐなダンディな男性でした。
 
 聞けば数年前に病魔に襲われ、手術は成功したものの、麻酔の際に注射針からばい菌が脊髄に入り、その後激痛に苦しむ日々が続き、最終的には腰が曲りこの様な歩行障害になってしまったと言うのです。病院側は非を認め謝罪し、賠償はすると言ったそうですが、Mさんの気持ちは治まらず、訴訟を考えていたとのこと。
 
 しかしその前にふと思ったそうです。それは世界中に何百万人といる患者の中で、何故自分だけがこんな目に遭わなくてはならないのか、考えても考えてもわからない。その時、以前私の説法会で聞いた『因果の道理』の話しを思い出し、私を訪ねて来たとのことでした。
 
 実はMさんと同じような悩みを多くの方から尋ねられます。私はそのような方々に必ず『因果の道理』を話しています。
 
 今回のことは医療事故自体は病院側に責任がありますから、徹底的に原因の究明をしてもらわなくてはなりません。しかしその原因が分かっても、Mさんが被害者となった原因は分かりません。何故なら病院側はMさんだけを狙ったわけではないからです。
 
 医療事故に原因があるように、その事故がMさんに起きたのにも原因があるからなのです。大切な事は、それが「何か」ということなのです。
 
 今回の事は、医療ミスとMさんの過去の行いという二つの原因による『縁』が結びついて『今』このような結果が起きたということなのです。お釈迦さまはこのことを『因縁和合』と説かれています。この様なお話しをしますと、仏教は究極的なニヒリズムに感じられ、人生全てが無常に感じてしまうものですが、決してそうではありません。
 
 お釈迦さまは真理の貫く根幹は、因果の道理、唯それのみだとはっきり言われています。それならば私たちは『善因』を積めばよいのです。
 

    「蒔かぬ種は生えぬ、蒔いた種は必ず生える」
 
                       釈迦


 
ところで真理の御言葉はお釈迦さまに限ったことではありません。かの聖書の記述にもあります。
 
人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになる(ガラテヤ人への手紙6:7-8)
 
涙と共に種を蒔く者は、喜びの歌と共に刈り入れる(詩編 126:5 )
 
少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取る(コリント人への手紙)
 
                                                    合掌


 
 さてそのMさんですが、先週末の日曜日に寺院に来られ、このようにおっしゃられました。

「医療事故の原因は確かに病院側にありましたが、その被害者が何故私だったのか、その原因は病院側には求めようもありません。こんな結果を受けなければならなかった要因は自分自身にあったはず。それが和尚様の言われる業というものなのでしょう。そう思ったとき、病院や医師への恨みはなくなりました。それどころか、私の体験が今後の医療の糧になれれば、それもまた私の使命だとさえ思えるようになりました」と。
 
 私たちは順境には感謝し、逆境には懺悔と努力をし、順逆どちらでもMさんのように、『人生の真の目的』に向かって一層聞法精進する勝縁と成せば、人間は『久遠の仏』となるのです。
 

仏教は因縁を宗(むね)とす。
一切法(乃至)を説くに 因縁のニ字を出でざるを以てなり
 
         維摩経
 
                                                    釈 正輪 拜