この前言ったばかりなので景色はその時のものだけど、夢らしくあらゆるものが象徴的になっていたね。
仙台は風に埃が立つイメージが強くて、最近鼻の調子が悪いから見た夢なんでしょう。
侍の散髪風景とか、朝帰りの先輩とすれ違う早く起きすぎた自分とか、偶然遭遇してすぐに見失ったりとか、予定も分からないのにやたら時間を気にしていたりだとかとか。どうも断片的な夢の記憶からひとつの共通項を出すと、「言葉にしなかった自分」というものが浮かび上がるようです。
「決めない」ということにある程度ポリシーを入れても、何もやる気が起きず汗をかきながら寝ていた十歳前後の自分から逃れられた試しがないのが困りもので。
桑田佳祐の「夏の日の少年」を初めて聞いたときから、これをずっと自分に突きつけなきゃいけないことはわかっていたんだなあ。寝汗をかいた朝に、よくぼうっとさせられてしまうのです。
最近「声を上げられなかった」ということに関連するニュースを見ると、社会人になりたてのときの女性の先輩たちの振る舞いをよく思い返します。
距離的なものもあるだろうけど、ぶきっちょな人がそのまま跳ね返される姿が光景としてはよく覚えていて、一つの芯の部分以外全てを「みんなのもの」にされることに外からはためらいも感じられなかったあの人は、現在も一人だしみんなのものであるようです。
セクハラをいなすのが上手かった(ように思えた)人のパワハラというのは、この社会ではきっと珍しいものでもなんでもないのでしょう。ありがりな言葉ですが、人との繋がりって分かりやすくしようとすればするほど悲しいものですね。