ラジオの「輝度」 | 無宿諾(諾を宿むること無し)

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何の根拠もなく「ラジオの本質は無音の方にあるんだ」と何年も言い続けてきた。その先を考えたときに

「ラジオというものの根っこの部分にbrightness、つまり輝度、鮮やかさというものがあるんだ」と結論付けた。

 

これはモノクロ映画にも言えることかもしれない。モノクロ映画には「色」がない。ラジオで言えばそもそも「画」がないということが重要になってくる。

 

喋り手や作り手がどの話に光を当て、どこを切り取り、またどこを直接言葉にせずして表現するか。技術にしても、声や音をどこを明るくしてどこを落とすか。そういったあらゆる要素の輝度の織り合わせがラジオの「鮮やかさ」となる。

 

ラジオマニアの中で、特に伊集院光ファンの間でたまに話題にあがり振り替えられるものとして、大江健三郎氏とのゲストトークの回がある。

 

大江氏が盟友、伊丹十三との最後の思い出を声で綴る。伊集院光は余計な話の切り方はしない。そして「伊集院、光、というんだよ」の大江氏の一言のあとの沈黙。話の中で人物の照度が移り変わり、ほぼギリギリのところまで伊集院氏は影のままである。そして必然的なさりげなさでスポットが当たった後、幕が下りるようにスポットは一度輝度を失う。

 

あの輝度の織り合わせこそラジオのbrightness、鮮やかさなのだ。あるブログ曰く『話の中で「小太り」「小太り」という言葉をさかんに連発していた。「小太り」の「光」。それはまた大江の息子に連なるのではないか」』とのことだが、ここもまた大江氏の仕組んだ、ラジオの輝度の妙であろう。

 

もう一つ例を挙げるとすれば、「大沢悠里のゆうゆうワイド」が土曜日版に移る前、休暇村富士から行われた生中継。最後の方で何気なく、いつもの呼吸での曲紹介で流れてきた「牧場の朝」。

 

午前と曲と番組の輝度。それがかなり普遍に近い形でリンクした、あの瞬間の「こんな揺るぎないものは、とても放送で表現できるものじゃないよ」という衝撃を、僕は忘れられない。童謡の持つ普遍性までラジオは届くということを、ゆうゆうワイドは最後に見事に表現して見せた。

 

FMで言えば「JET STREAM」の前口上、特に城達也氏の語り口だと、このラジオの「輝度」というのがかなり分かりやすく表現されている。無音の影が光を作り出すのだ。