木曜日に、実家から帰る妻を実家近くの駅前で拾い、そのまま箱根に行きました。冷たい雨が降り続ける山道をどんどん登って、雲の中に突入し、山も谷もかすんでしまっているつづれ折の坂を走り続けて、芦ノ湖畔に出ました。
6時チェックインと伝えてあった宿に3時に入り、部屋でごろごろしていました。
翌日は芦ノ湖あたりでちょっと買い物をして、さっさと伊豆に向かいました。

伊豆に夫婦で来るのは三度目。

一度目は30年以上前に、二歳になる前の長男をつれて車で来たのだけれど、対向車線の交通事故を目撃して、けが人の救出にもちょっと手を貸したりして、なんだか旅を楽しむ気分が消え、とりあえず湯ヶ島に一泊したけどぜんぜん楽しくなくて翌日まっすぐ妻の実家に帰りました。あまり早く帰ったので義母が驚いていました。

その後はなんとなく家族旅行先として伊豆は敬遠していました。
二度目はもう子供たちが家を出た数年前。また湯ヶ島に。今度は川端康成が『伊豆の踊り子』を書いたという宿に泊まり彼が入っていた温泉に入りました。
踊り子と主人公が会ったという共同の湯は川の向こう側に見えました。

今回は、私自身の思い出をたどるたびでした。妻は、どこでもいいから、ちょっと旅をしたいという気分でした。

泊まったのは土肥。ブログを始めたころにネット上で行き来していた、看護師さんのブログの記事を思い出して、この場所を選びました。。
お付き合いしていた医師と部屋つきの露天風呂から夕日を眺めたというようなことが書いてあって、読んだとき私も露天風呂から夕日を見たいと思ったのでした。
彼女が泊まったような高級旅館ではありませんでしたが、ちゃんと海の見える露天風呂が部屋についていて、しかも天気が回復し、海に沈む夕日を部屋の露天風呂から見ることができました。

この日は宿に入る前に、もしいつか西伊豆に行ったらぜひ見たいと思っていたもうひとつの場所も見ることができました。
松崎の「伊豆の長八美術館」です。ここは、見術工芸に関心のある妻もきっと喜ぶだろうと思いました。
妻は長八の名を知らなかったので、「また自分の趣味だけで私を連れまわすけど、まあ仕方がないわ」という態度が、美術館に行くまでは仄見えていました。しかし、入館すると私よりも熱心に見ていましたし、見終わった後は大いに満足していました。
土肥に戻って、「天正金山」の史跡を見学しました。ガイドブックにはもうひとつの、地元の一大観光拠点となった土肥金山しか載っていないのですが、ふらりと立ち寄った、人気のないまるで廃墟のようなこの史跡は、ガイドのおばさんお人柄もよく、これまた二人で大いに満足しました。

翌日の帰路は、あえて西海岸の峻険な崖沿いの道を選んで、沼津に向かいました。
それは、土肥の北にある戸田を通りたかったからです。

戸田で行われた私の高校一年時の学年臨海合宿は全員参加が建前でしたが、私は母に頼んで学校に申し出てもらい、病気治療を理由にそれを欠席しました。
今となっては、なぜそうしたのかそのわけをまったく思い出せません。
そして、その代わりといって、母から小遣いをもらい母の実家の讃岐まで生まれて始めての一人旅をしたのでした。

二学期になって、学期当初にクラスメート同士の会話に戸田合宿の話が何度か出ました。私は戸田が陸上交通の不便な漁村で、(沼津か清水あたりから)船で渡ったのだと知りました。級友と合宿で一緒に泊まれなかったことには何の後悔もありませんでしたが、陸の孤島というべき戸田港の記憶はしっかりと脳裏に刻まれていました。

停車すらしないで走り抜けただけでしたが、永年気にかかっていた戸田の町並みを見られたことは、とてもよかったのです。
伊豆半島の尾根を走る道路が何本か開かれ、入り組んだ海岸の崖と入り江を縫って走る隘路も完全舗装されていて、交通の便は50年前とは比べ物にならないほどよくなっていますが、戸田の町はひっそりとした温泉と漁業の町のたたずまいを、私が空想したとおりに残しているように思えました。

伊豆半島を抜けると、テラスにおいたダンボールの中で待つ二匹の猫のことが気にかかり出しました。
足柄のサービスエリヤで土産を買い昼食をとって、後は一路家に向かいました。
帰ってみれば猫はしゃらりとした表情で何事もなかったように家に入ってきましたが、餌の食いつきがいつにもましてよかったので、彼らの気分が分かりました。

老人とブログの海-夕日