弥生月末 その1

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三月から四月にかけての時期は、終わりと始まりの季節だ。あるいは別れと出会いの。


お気に入りの記事や番組のシリーズがいくつか終わった。


朝○新聞土曜特集Beの『愛の○人』。

最終回はなんと「○鬼六」だった。私にも大昔にほんの少し土地勘のあった西永福辺りに彼は住んでいるが、そこに住むようになってから奥さん公認で付き合っていた愛人の話だ。

作家「○鬼六」は英語の教師として出発して純文学を目指しながら、新人賞のような賞を一つとった後は大成できず、SM小説でブレークした。代表作の『花と蛇』は私も長い話の中ほどを読んだことがある。

SM小説断筆宣言後に書かれた、伝説的な将棋指しの生涯を描いた『真剣師・小池重明』も読んだが、これは面白かった。

SM作品を書く前の彼の作品を読んで、ひとの捉えかたが類型的に過ぎる、狙っていた文学賞が取れなかったゆえんではないかと感じた記憶がある。


妻に、「『愛の○人シリーズ』が終わるよ」といったら「貴方はそれが好きだけど私は全然関心ないわ。同じBeでもBusinessページのほうがずっと面白い」と一蹴された。

○鬼六の名前だけは知っていたようなので、「行きつけのスナックで出会った女性を愛人と称して、鬼六自身の好きなように稽古事をさせたり着物を着せたりして、いろんな場所に連れ歩いていたらしいよ。奥さん公認だったらしい」というと、「まあ、むかつく話ね」と言いながら、余り取り合わなかった。

気に入った女性を愛人として自分の好みに「仕立てる」という女性への接し方は、ある種の男の願望や夢のようにもので、先ごろ読んだ谷崎の「蓼食う虫」にもそんな話が出てくる。そういう男のあり方を女性自身がどう受け止めているのか、時代や場所や個性によって異なるのだろうが、もちろん男が思い込んでいるほどその気持ちは単純ではないだろう。

29日の記事に書かれた、鬼六の美しい「愛人」は、彼の好意をありのまま受け入れていたように見えたがある日突然理由不明のまま自殺してしまう。小説ではなくて実際の出来事だったからなんだか無残な話に思えてならない。

鬼六はまたそのことも小説に書くが、これは物書きの宿命みたいなものだから、責めるわけにはいかない。


秋の後半から次第にはまり始めて、年が明けてからは欠かさず見ていたNHK朝ドラ「ちり○てちん」も同じ土曜日に終わった。


映画「息子」(1991.10松竹 日本アカデミー賞最優秀助演女優賞受賞 )で見てから和久井映見のファンになったが、その後はほとんどコマーシャルで見る程度だった。

すっかりお母さん役にはまった彼女を見て、時間の流れをしみじみと感じていた。


しかし、この話の結末には不満だった。

ヒロインは自分らしさを探して、落語の世界に飛び込み、どじでへたれな人柄にもかかわらず周りの人たちに助けられ励まし、知らず知らずに自分も仲間を支えてやがて自分の本当になりたいものを探す。

この、現代の女性の自己啓発ストーリーの終着点が、妊娠をして母になり、お母さん(そして落語家のおかみさん)になって、「お母さんみたいな人生を送りたくないんや」と叫んで飛び出したふるさとの母親に回帰することなのだ。

多分それが、この国の多くの女性の幸せな人生の一つの姿なのだろうと思う。

ドラマはそこで終わって、めでたしめでたしだけれど、現実の生活はその後も続いていく。むしろ、いったん住み着いたその場所に安住できずに(その理由は、女性自身にもあるだろうし、周りの人々にもあるだろうけれど)奮闘している女性にこそ何かメッセージを贈れなかったのか。

私はそう思った。

そうしないと、男はまたこの話に甘えるのではないかと思ったのだ。