7月30日
ディプロマットホテルの朝食
牛乳の味が少し違うように感じる。茹でジャガの皮はむいてない。ハム・ソーセージは5種類以上あり、全体に塩味が濃い。食材は豊かで乳製品はバラエティーに富みヨーグルトはおいしい。スイカ、リンゴ、ブドウ、オリーブなど、キュウリはスライスしてあるが硬い。何と日本食あり。ご飯、みそ汁(豆腐とネギ)うどん(硬くてまずし)ノリなど。ハシはヨーロッパの軟質材を使っているせいかすぐに折れる。
周りの外国人を見ると、お皿を持ち上げて食事をする人はいない。又、食事量はあまり多くないように見える。しかしあの巨体を維持することはできるのだろうか。とにかく、異常に太った人がとっても多いのだ。
プラハ市内観光
8時30分ホテルを出発。プラハの町のガイドは、190cmを超える長身のクロアチア人。時々冗談を交えなかなか日本語が上手である。クロアチア人は、ユーゴスラビア紛争に関係しているから、チェコのプラハの春など大国の圧力に対抗する気持ちはチェコ人同様に強いものがあると思われる。中欧の人々は1945年以後、常にソ連との関係で命をかけて苦労をしてきた。その分、現在の平和を満喫しているように感じる。
プラハ城
プラハ城には、聖ヴィート教会があり歴代の王の墓などもある。そこにはキリスト教文化が強く映し出されている。教会内のステンドグラスを見ると、キリスト、マリア、ヨゼフ、十二使徒、最後の審判、12ヶ月の農事暦などがモチーフとして掲げられている。当時、文字を読めない人が多くいた時代にステンドグラスの絵で解説をしていたのではないかと思われる。この教会は着工してから途中オスマントルコの侵入があって中断し、最終的には500年もかけて完成したようである。民族性がよく表れている建築物でもあった。
この教会で、キリスト教について新たな発見をしたような感じである。ヨーロッパ人がキリスト教を信じるようになった理由の一つに、各地域を支配していた諸侯の対立があった。
諸侯はチャンスがあれば、隣接の領土を侵略しようとしていたのである。侵略の理由は何でもよい。もし隣接地域がキリスト教でなければ、キリスト教布教というローマ教会からの大義名分が立ち、すぐに攻撃が可能となる。そうならば、各諸侯はこぞってキリスト教に改宗する必要が出てくるのでないだろうか。
カフカ
プラハ城には、黄金の小道という幅5m長さ30mくらいの場所があった。ここは本来城壁で、矢などの武器を作る人たちが住んでいたところらしい。日本で言ったら“中間長屋”といったところだ。それらは、その後当時のままの形を保ち、住人が代わってきた。その一つに、チェコの文豪カフカが創作活動をした小部屋があった。現在も当時のままに小さく分割され、みやげ物店になっている。
フランツ・カフカ(Franz Kafka, 1883年7月3日 - 1924年6月3日)は、出生地は現在のチェコでドイツ語作家。プラハのユダヤ人の家庭に生まれ、法律を学んだのち保険局に勤めながら作品を執筆、常に不安と孤独の漂う、夢の世界を思わせるような独特の小説作品を残した。その著作は数編の長編小説と多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成る。生前は『変身』など数冊の著書が知られるのみだったが、死後に友人マックス・ブロートによって未完の長編『審判』『城』『失踪者』を始めとする遺稿が発表されてから再評価を受け、特に実存主義から注目されたことによって世界的なブームとなった。現在ではジェイムズ・ジョイス、マルセル・プルーストと並び20世紀の文学 を代表する作家と見なされている。【カフカを調べて要約】
カレル橋とザビエル
チェコの旧市街を観光した。平日といえども人々が多く日曜日のような賑わいである。道という道はすべて石畳で、このようなところにも歴史と伝統を感じる。
チェコといえばプラハの中心を悠然と流れるモルダバ川、スメタナの“わが祖国”であまりにも有名なり。川にはいくつもの橋が架かるが、その中でもカレル橋が最も有名。橋の欄干には何体もの聖人の石像が飾られている。その中に有名なものが2つあった。ひとつは、聖ヴィート教会の牧師であった。彼は王女の懺悔を受け止めたあと、秘密を守って国王に死刑にされ、モルダバ川に投げ捨てられたのである。その像に触れると、幸福がやってくると言い伝えられ、観光客が列を成していた。もうひとつは“フランシスコ・ザビエル”であった。彼はアジアにキリスト教を布教したが、像はインド人にキリスト教を授けているところで、他の異民族がそれを支えるというモチーフになっていた。カトリック教徒の人間のランク付けとヨーロッパキリスト教至上主義を垣間見た気がした。異民族のひとつが日本人になっていたが、日本人は弁髪・青龍刀2本を腰につけていた。何でもこの像を作った作者は日本を知らなかったそうだ。
プラハ旧市街広場とフスの像
ヨーロッパの旧市街には必ず広場がある。プラハの広場に面した角に、ボヘミアグラスのお店があり案内された。女性には人気があるが、男性にはどうも・・・・。
プラハの広場には旧市庁舎に天文時計があり、人々に道徳を訴えていた。人間には必ず死がやってくることを骸骨像で、アラブ人像で快楽を、ほかにはお金への執着とうぬぼれを表す2体の像があった。これは複雑な天文時計の一部だそうで説明されても理解しがたい。
広場の中央には、世界史でも有名なフスの像がある。フスは教会の牧師であるが、当時の腐敗していた教会のあり方に異議を唱えた。それは当時の教会勢力の反発を受け、反乱と位置づけられてしまった。
ガイドの話を聞いていると、中欧千数百年の歴史は、民族移動、宗教戦争、近隣諸国との領土紛争、オスマントルコの侵攻、ソ連侵攻と多くの血が流されてきたことがわかる。その出来事に民衆が常に立ち上がらざるを得なかったことを考えると、中欧の人々の悲劇と深く強い精神力を感じる。与えられた平和と自由ではなく、血で勝ち取った権利であり、日本とは大きな違いがそこにはある。
フス派の乱(1419~36年)は、その後のルターに強く影響を与えている。フスは異端とされ火あぶりの刑になったが、フスの支持者は反乱を続けた。フス派の乱は、チェコばかりかドイツ南部にも拡大し手がつけられなくなった。カトリック教会は、一部フス派の要求を受け入れ、フス派を分裂させて乱を押さえ込んだ。教会がフス派に譲歩した内容に、「聖書をチェコ語に翻訳する事を許す。」というものがあった。それまで聖書は、ラテン語で書かれており、一般人が聖書を直接読む事ができなかったのだ。チェコ語に翻訳が許された後、各国の言葉に聖書が翻訳され、一般の人が、直接聖書を読む事ができるようになった。フスの行動が、宗教改革の発端になったのだ。
中欧の政治とキリスト教
国境はなぜ必要なのか。そこには隣国間との何らかの軋轢があるからであろう。陸続きであれば、経済格差(土地の生産力)が最も大であろうか。それに加わって宗教的差異。中欧は本来、自然の力をそのまま崇拝していたはずだ。そこにキリスト教という他の宗教の存在を一切認めようとしないかたくなな姿勢をもつ一神教が中欧に広まってきた。ザビエルもその流れで生まれてきた人間である。他の地域にしてみればいらぬお節介である。前にも述べたように、中欧の国々がキリスト教化したのは信仰の崇高さより、自国保身の手段でもあった。
その中で、1299年に成立したオスマントルコは、領土の拡大をはじめ、1450年頃にはバルカン半島中部を占領、1526年にはハンガリー帝国を占領している。
このころは丁度、キリスト教会の腐敗と堕落の時代でもあり、十字軍なども組織されたが芳しい戦績はあげていない。
キリスト教会の堕落は、人間のエゴの表れで、宗教家といえども欲望には勝てないことの証明になっている。その欲望に勝って人生を貫いた人たちが聖人として長く人々に崇められ人々はそれを見本・手本にしたのであろう。人間が欲望を抑えられれば、聖人などは不要であろう。聖人君子が世界の各地に存在するということは、人間は古今東西同じようなものだということになる。逆に見れば、聖人君子が沢山いる国ほど、道徳性が低い国だともいえる。1918年に第1次世界大戦で破れたオスマントルコは衰退した。しかし、1945年に第二次世界大戦が終結すると、中欧は東西冷戦の境界として分割され、資本主義と社会主義のイデオロギー対立の最前線におかれてしまった。中欧地域の姿は一見変わらないように見えるが、小村などを見ると道路、家々、人々の様子などにはっきりとした差が見られる。特に東側に位置させられた地域は、常に自給的な生活を考えているように思える。1985年のソ連崩壊、89年のベルリンの壁崩壊、92年のマーストリヒト条約によりEUができ、自由移動・共通通貨が生まれた。中欧の人にしてみれば、これこそキリスト教やイデオロギーから解放された平和と安全であり、早くそれに参加したい気持ちだろう。すでに国境は実質的にはずしてしまっている。しかし、ここ数十年間に生まれた経済格差がEU統一を阻んでいるが、これを放置すれば再び対立が生まれるかもしれない。今後問題点はさらに生じるであろうが、長い年月、100年後を見据えれば必ずや中欧は安定していくことだろう。
ベラ・チャスラフスカ(1942~)の話
ベラはチェコで人気者であった。1964年と68年にはオリンピック体操女子個人で金メダルを取り、プラハの春にも積極的に参加したのである。1990年代には東欧の民主化が始まり、日本からも多くの観光客がやってきた。彼女は、プラハにボヘミアングラスのお店を出して経済的に豊かになった。しかし、息子が夫とけんかをし、夫を殴り殺してしまった。ベラは友人のハシェク大統領に話をし、息子を恩赦にしてもらった。このことが国民に批判されて支持を失ってしまい、現在はマスコミなどにもほとんど顔を出していないという。
中欧での食事スタイル
中欧の人は陽光を浴びるのが好きです。女性はほとんどがタンクトップで、ほとんどの人が短パンでいる。レストランも歩道にカフェテリアを出すのが常識で、人々はそこで食事やおしゃべりをするのが大好き。レストランの室内テーブルを見ると誰もいない。
プラハのレストランで昼食。ビール、前菜、主菜、デザートのパターンは変わらず。大して運動していないので、少な目の食事で十分だが、人によっては不足だろう。
水はいつも有料だ。それどころではない。ビールはジュースとそれほど価格が違わない。
ビール500cc 2.5ユーロ ジュース 2ユーロ
次はウィーンへ向かっていきます。