「天地初發」どう訓むか

 

古事記本文冒頭(原文)

「天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神 訓高下天、云阿麻。下效此…」

 

古事記では冒頭のっけから何の説明もなく「天地初發」と始まります。

この「天地初發之時」の「發」の訓みが令和の時代になっても諸説紛々としており、収拾がついていないとか。

・ハジメテ ヒラクル

・ハジメテ ヒラケシ

・ハジメテ オコル

・ハジメテ オコリシ

・ハジメテ アラワレシ

開くのか、興るのか、現れるのか…

 

ちなみに、江戸時代の古事記研究の第一人者・本居宣長(1730-1801)は、

『古事記傅』の中でなんと「發」の字を訓まずに「アメツチノハジメノトキ」としているそう。

悩んだんでしょうね。

 

私は「ヒラク(ル)」とした説が一番もっともらしいと思います。

花がひらくとき、よくこの「發」の字が使われています。

「花發玉楼春」(花はひらく玉楼の春)【崔灝・唐】

書道を習ってる人は一度は書いたことがあるのではないでしょうか。

 

「發」は弓を引くという意味があります。

麻雀でも「白發中」という牌がありますが、「白」が的で「發」が弓を引く、「中」が的中の意味なんだそう。

 

私は漢字の成り立ちや意味を勉強しているわけではないので個人的な感想になりますが

「發(ヒラク)」には「開く」より臨場感があるように感じます。

お不動様の種字で言えば、「カン」と「カンマン」の違いに似ているかも。

現在形に対して進行形というか。ベクトルの方向がポジティブで力が強いというか。

ちなみに、よくカンマンのカンは不動心、マンは柔軟心とか言われているようです。

ここにも荘厳体とあるように、不動心を柔軟心で飾ったように見て取れますが

私はそういうことじゃなくて、あくまで臨場感、方向性と力の違いだと理解してます。

 

横道にそれましたが、「初發」の「發」に「ヒラク(ル)」を採用すれば

冒頭6字「天地初發之時」は

「アメツチハジメテヒラク(ル)ノトキ」になります。

 

あめつち はじめて ひらくる の とき…

 

ああ本当にいきなり唐突に、天地が始まってしまうんですね。

この始まり方がかっこいいと思うのは私だけでしょうか。

 

 

  天之御中主神は創造神ではない

 

ではその次。

天地が初めて發くことで実現したのは、

「於高天原成神名、天之御中主神 訓高下天、云阿麻。下效此…」

たかまがはらに なるかみのなは、あめのみなかぬしのかみ…

 

ここで重要なのは、高天原も天之御中主神も、「天地初發」の後だということです。

つまり、古事記において、日本の神話において、日本において、「天地創造の神」はいないと言うことです。

よく聖書とのつながりで古事記を読み込んでいる人が、聖書のGOD=天地創造者は古事記においては天之御中主神だと堂々と解釈していますが違います。

よく読んでください。冒頭のっけから間違わないでほしい。

 

 

  「高天原」どう訓むか

 

「於高天原成神名、天之御中主神 訓高下天、云阿麻。下效此…」

たかまがはらに なるかみのなは、あめのみなかぬしのかみ…

 

「高天原」にも色々な訓み方があります。

・タカマガハラ

・タカマノハラ

・タカアマノハラ

・タカアマハラ

 

一番多いのはやっぱり「タカマガハラ」でしょうか。

でも「タカアマハラ」が正解です。

何故かって…

訓釈がありますから。

曰く、

訓高下天、云阿麻。下效此

高の下の天を訓んであまと云ふ。下つ方此れにならふ

(高の下の天は「あま」と訓みますよ、これ以降も同じですよ)

 

「天」は普通に訓めば「あめ」です。

「あめつち(天地)」の「あめ」ですね。

普通に訓まない場所に訓釈が付いてるのです。

ここは「あめ」じゃなくて「あま」って訓むんですよ…って。

訓釈が付いてるそのそばから「タカマガハラ」って訓みをつけるのは何故なのか。

 

高天原タカアマハラと訓むのです。

先人の遺したものを勝手に変えない方がいいと思います。

 

 

  天之御中主神はアマノミナカヌシと訓む

 

深夜だし、だんだん書くのがしんどくなってきたので飛ばして書きます。

「天之御中主神」」も「アノミナカヌシノカミ」と訓まれているのがほとんどですが

ある方の説では「アノミナカヌシニカミ」が正解だそうで、それがかなり説得力があります。

簡単にかいつまんで紹介すれば、

「天」は基本「アメ」と訓むのだが、「天」に「之」が付いた場合は「アマ」となるのだと。

ゆえに「御中主神」なら「アメノミナカヌシノカミ」だけれども

天之御中主神」の場合は「アマノミナカヌシノカミ」と訓む。

本当はもっとちゃんと説明しときたいのですが電池切れなので割愛します。

 

天之御中主神は最初に成った神なのに、

訓み方も間違われ、天地創造の神と間違われ、散々ですね…

 

 

  まとめ…古事記冒頭を訓む

 

【原文】

「天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神…」

 

【訓み】

あめつち はじめて ひらくるのとき

たかあまはらに なる かみのなは あまのみなかぬしのかみ…

 

初っ端からとても重要なことが書いてある、しかも名文。

 

 

 

  GOD(創造神)との違い~自然の摂理が絶対の法

 

聖書がヒューマニズムに陥りがちなのは、天地創造の絶対神が人間を造ったからに他なりません。

もちろん動物や植物やありとあらゆる生きとし生けるものを造ったのでしょうけど、

人間を人間たらしめたのはGODであり、人間は(動物も)人間(動物)という属性をそもそも与えられたGODの創造物ということです。

人間は生き物の中で神と契約を躱す特別な存在であるから、同じ神の創造物である地球や宇宙(自然)を人間がコントロールできるという結論に至るのかもしれません。

それに対して日本神話において天地はいきなり唐突に發き、その後に日本人の祖先である神が成るわけですから、日本の神道はあくまでも自然信仰が基礎となります。

 

聖書では神を信じ、神の御心に従うことが救われる唯一の手段であるのに対し、

日本の神道では自然の摂理が絶対の法なのです。

従って開祖もいないし「教え」もない。自然と調和することが最も重要な生きる手段なのです。

 

この相違は根本的かつ決定的なものです。

 

私は古事記をただの神話であるとか寓話であるとは考えていません。

ここには、(多分)史実に基づいた日本という国の成り立ちが記されている。

寺でいえば縁起書…会社でいえば沿革…のようなものではないかと。

 

ここからなぜ仏教が日本仏教として今日まで根付いたのか…神仏習合の宗教観に展開するわけですが、今日は電池切れ。

 

(続く…かも)