「こんな夜更けにバナナかよ 愛しき実話」渡辺一史さん1

の続きです。

 

「喜び(喜ばれた)」と主体と受動の2つの表現をしたのは
人に喜ばれると自分も嬉しくなるからです。

だから、人に喜ばれることをして、喜んでもらうと
そこには、2つの喜びが生まれるから。

 

我が子を慈しみ、幸せに育てた母親もたくさんの喜びをもたらせた
=充実して、生きている ことになるでしょう。
ただ育児の場合は、有限なので、その後の人生は

子どものために生きるのではなく
自分の命をしっかり活かしていかないといけない。


 そのように、人に喜ばれるように、自分を知り

活かし、生きていくことが

「充実して、生き切る」ということではないでしょうか?

 

健常者だって、有限である人生を惰性で生きてしまっては

もったいない。
自分を精一杯生き切らないと。

 

「自分を知る」とは、
自分は
何が、得意なのか?好きなのか?
何で、人を喜ばせることができるのか?

を知ること。

 

「健常者の 充実して生き切る とは、どれだけ喜ばれたか?」
 それに気付けたのは、実は、少しの間、自分のためだけに生きてみて
虚しさを感じた経験もあったからでした。
 
鹿野さんは、力強く、前向きに、自分を精一杯生き切ったからこそ
このように、会ったこともない私にまで

大きな気付きをもたらせてくれました。
改めて、すごい人だな、と思いました。
 
また、明るくて、楽しそうな場面では、読んでいて

私まで楽しい気分になれました。
楽しそうな場面では、正直、羨ましくもありました。
私は、そんな風に、まわりの目も気にせず

感じるままに楽しむことってないな、と思ったから。
今の日本なら、ほとんどの人がそうなってしまっている

かもしれないけれど。
「人に迷惑をかけてはいけない」そう思ってしまうから。

 

でもこの小説を読み、鹿野さんの人生を

ほんの一部でしょうけれど、知り
「人に迷惑をかける」ことは、悪いことではないのではないか

と思いました。

 

迷惑をかけ合いながらも関わり、許し合い

お互いを深く知り、そして、絆が生まれる。
迷惑をかけるくらい、深く関わらないと、真の意味で

相手を人を理解することなんて、できないのではないでしょうか?

 

1人でも楽しいことはあるけれど、その楽しさには限りがある。
けれど、人と一緒に楽しむことは、

無限にある、無限に生まれてくるのだ
と気付きました。
 
だから、必要以上に「人に迷惑をかける」ことを怖れず
積極的に人と関わってみよう、繋がってみよう、と思いました。
そして、「楽しい」も遠慮なく、表現してみよう、と。

 

最後に、私がこの本を最後まで読めたのは、映画化されて

大泉洋さんがこの役を演じたということも大きい、と思っています。
 
というのも小説冒頭、ボランティアの方々に

上から口調の鹿野さんに軽く嫌悪感を感じてしまったのですが

(人に助けてもらうのに、依頼するのに、その言い方!?と)
鹿野さん=大泉洋さん と想像しながら、読んでいたので
鹿野さんのユーモア溢れる雰囲気も伝わって来て

憎めなくて、明るい気持ちで、読み続けられたからです。
鹿野さんの憎めないキャラクターを想像するのに

大泉洋さんがぴったりでした。
 
半分程度、読み続けた後には、「その言い方!?」

なんて、全く思わず
生きるに真剣だったからこそ、そうしないといけなかったのだ

と理解できました。

 

しかし、明るいキャラクターの障がい者ではないと

なかなかそう思ってはもらえないかもしれません。
そういう点では、ある程度の人間的魅力のようなものがないと

助けてもらえなくて、不公平ではあるのかな、と思いました。

 

障がい者の皆が皆、鹿野さんのように頭の回転が速い訳でもないし
正直に、自分の気持ちを他者に伝えられる訳でもない。
でも本当ならば、人間の尊厳として、当たり前の欲求は
当たり前に叶えられたらいいのにな、と思いました。

 

そのためには、支援する側が障がい者の性格に

関わらず、人には、普通に欲求を満たす尊厳があるのだ

ということを理解することかな、と思いました。

 

この本を読んで、気付けたことを忘れないように
この読書感想、及び本を何度も読み返したいです。
そして、ノベライズ版じゃない本も必ず、読みます。