麒麟がくる 大桑城 遺物が語る幻の城下町(3)46) | 山羊のソラくん

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46、遺物が語る幻の城下町(3)

  ~大桑の調査成果から(9)~

 

 前回からの続きです。

 

大桑城に守護土岐氏があった戦国時代、その城下に「町」はあったのでしょうか。

 

 

 この疑問に答える傍証の一つとして、「町」での都市的な消費の傾向を示す遺物「かわらけ」に注目することが有効であることを前回お話ししました。

 

 

 

 この「かわらけ」が市洞の谷の中で広範囲に、しかも面的に落ちでいれば、戦国時代の大桑城下に都市的な景観があったことを示していると考えられます。

 

 

 革手・福光・枝広といった大桑より前に土岐氏が城館を構えた場所の周辺では一般的な集落遺跡で採集される「かわらけ」の量を上回る量のそれが、面的に散布している状況が確認されています。

 

 

 

 そこはおそらく守護の館に伴う「城下町」のような景観があったと考えられています。

 

 

 では、大桑はどうだったのでしょうか。

 

 

 

 そこで、我々が行なった分布調査のデータを「かわらけ」に絞って見てみました。

 

 

 

すると、果たして大桑城下にも「かわらけ」が面的に散布していることが分かりました。

 

 

 

戦国時代、大桑城下も「町」のような景観を呈していた可能性が高いと判断されたわけです。

 

 

 

 このように、瀬戸美濃陶器や土器片の分布から、戦国時代の大桑に「町」の生活があったことが導き出されたわけです。が、忘れてならないのは、今遺っている土器や陶磁器片だけでなく、もっとたくさんの「物」がそこでの生活に伴って存在していたということです。

 

 土器や陶磁器のかけらはいまの私たちにとっては単なるガラクタにすぎませんが、その存在を通して、さらに多くの「物」に囲まれて当時の人々が生き生きと活動していたことをうかがい知ることができます。

 

 

 

 しかし、モノを見るだけでは当時の生活について詳しく知ることはできません。

 

 

 

そうした物がどんな風に人々の生活を関わっていたのか、それを昔の人が生活した跡と共に見ていく必要があります。

 

 

 次回は試掘調査の成果について報告します。

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