麒麟がくる 大桑城 大桑の調査成果から(2)(39) | 山羊のソラくん

山羊のソラくん

コロナとヘルニアで引き篭もり
ブログデビューの
「麒麟がくる」はネタ切れで終了しました。
5月4日に、生後1ヶ月の山羊ちゃんが我が家に婿入りしてきましたので成長を紹介していきます。

39、大桑の調査成果から(2)

 

  

大桑城<15日NHK TVニュースより>

 

 

 前回は、「大桑」と、それ以前の美濃の守護所「枝広」の都市構造を想像図のイラストで比較してみました。

 

 

 一見してわかる通り、平野部に碁盤の目のように展開する「枝広」に対して、「大桑」は白を備えた山の麓の谷に位置し、谷の入り口は堀と土塁で閉め切って、内側の城下町の守りを固めています。

 

 

 「大桑」はそれまでの「枝広」などの都市と比べて、攻め手からの「防御」をより強く意識した構造を採用していると言えるわけです。

 

 

 

 この城下町を守っていた堀と土塁の一部が今も大桑の「一洞」「栢野」の境あたりに残っています。高富町指定史跡になっている「四国堀跡」がそれです。

 

 

 

 平成8年高富町教育委員会が、大桑の土岐氏に援軍した4カ国の軍勢が造ったためそう名付けられたと伝えられているこの堀跡の付近一帯の試掘調査の結果です。

 

 

 

 まず、この「四国堀跡」が、「外堀」と共に城下町を守っていた堀の一部であると考えてまず間違いないことがわかりました。

 

 

 

 そして、この時の調査では、もう一つの大きな成果がありました。

 

 

 

 大桑には、大桑城の土岐氏に味方した越前からの援軍が堀を造ったという伝説があり、江戸時代になってから描かれた絵図には「越前堀」という堀があったことが記されていたのですが、この「越前堀」の跡である可能性の高い遺構が出土したのです。

 

 

 

 この調査の成果を受けて、平成9年度も引き続き「越前堀」の調査を行いました。

 

 

その結果、幅5mの堀跡が出現し、「越前掘」が実在したことがわかりました。

 

 

 

 こうして両年度にわたる調査から、大桑城の山の麓には厳重な堀で守るべき「何か」があったことが確かめられたのです。

 

 

 そして、調査で確かめられた最も重要なことは、大桑城と城下町の伝説が、事実だったということでした。

 

<次へ>    

 

 

5月15日 NHK TV ニュースで紹介されました  

   

字幕=美濃のマムシ 斎藤道三が土岐氏を追放し治めた城 

 

字幕=道三が長男・義龍に」追われた際

        この城に逃げ込んだとされる

 

字幕=その後、長良川の戦いで道三は戦死