37、戦国の城 大桑城(おおがじょう)
大桑城
大桑城は、革手・福光・枝広といったそれまでの美濃の中心地とは全く違った構造をしています。
越前の朝倉氏の本拠地となった一乗谷(いちじょうだに)と共通するその都市構造は、あえて山間部を選んだような防御性の高いものであり、このことからも、戦国の混乱の中、土岐氏・斎藤氏を中心として美濃の人々が何らかの理念の下、新しいまちづくり・国づくりを目指していたことがうかがえます。
この大桑での新しいまちづくりとは一体どんなものだったのでしょうか。それを確かめるのが現在高富町で実施している大桑城跡の試掘調査(1999年)です。
大桑の城下町は広大なものだったことが推定されていますが、現在行っている調査はほんの一部の試掘が始まったばかりですから、これまでにわかったことは氷山の一角にしかすぎません。
それでもいくつかの事実が明らかになってきており、革手・福光・枝広といったそれまでの守護所にはみられなかったような特徴をこの大桑に見いだすことができます。
例えば先に述べたような防御性の高い城下の構造などがそれです。
また、大桑城は16世紀の前半から中頃まで美濃の中心だったことが古記録や伝承に残されています。
調査ではこれをおおよそ裏付けるような考古資料が得られはじめています。
大桑城は通説、斎藤道三に攻め落とされたとされていますが、落城の時期は16世紀の中頃と考えられます。
大桑城の落城以降、美濃では斎藤道三の後、斎藤義龍(さいとうよしたつ)が戦国大名的な政策を推し進めることとなります。
美濃が周辺の国々にさえ大きな影響力を放ち、安定した政権を維持していた斎藤妙椿(さいとうみょうちん)の死後、美濃は混乱の時代に突入し、以後100年近い戦乱の歳月を経て、ようやく一つの勢力にまとまろうとしていたのが義龍の時代でした。
これまで土岐氏の歴史をたどってきましたが、大桑城はその一番終わり頃、まさにこの混乱の時代の中にあった城で、美濃の戦国史における一つのシンボルでもあります。
斎藤 義龍(さいとう よしたつ)は、戦国時代の武将。美濃国の戦国大名大永7年(1527年)7月8日、斎藤利政(後の道三)の長男(庶子)として生まれる。母は側室の深芳野。幼名は豊太丸、元服後は利尚、高政と名を変えている(『高木貞一氏所蔵文書』)
https://ja.wikipedia.org/wiki/斎藤義龍
斎藤 妙椿(さいとう みょうちん)は、室町時代から戦国時代にかけての武将・僧。斎藤宗円の子または弟[2]。甥・斎藤利藤の後見役を務めた
https://ja.wikipedia.org/wiki/斎藤妙椿