こんばんわです🥰鈴乃音です。


昨日は宮島へ行ってきました。


初めての厳島神社です。




そこで頂いた、神様の声。

人によってはきっと違うのでしょう。

あくまで、
こちらでは私が聴いた声を
書きたいと思います。




『雅を感じてもらえることの、歓び』


そんな想い。




人が、

美しい、と
尊い、と

感じ、

訪れる人が、
歓びに胸を振るわせてくれること。


その事に、

歓びと、愛しさを、
感じておられるような。


そんな声が聴こえました。





人の念がないわけじゃない。

それにより、

神気が弱く感じられることは、
確かかもしれない。



宮島という、神の島。


そこには、

熊野、吉野のような、
厳しさはないけれど。


人の心に
『感動』と『尊び』を灯そうとする
優しい愛を感じました。



神様は、いつも

人間が驚くほど優しく、

愛が深い。


伊勢神宮でも同じ。

私はついつい厳しい目でみてしまう。

人間は不正を許せない心をもってる。

当然、私も持っている。


でも神様は…
持っていないというより、

その暗い思いにフォーカスをされていない。


だから、
はっ!…っとするような
慈しみ深い言葉をきいて、

自分の未熟さを反省することもある。






外国の方々が多く訪れ、

賑わう、宮島。



人は多い。

その人の念に汚れて、
空間が重くなっていると、
聞いたことがあった。


それは…
あるのかもしれない。




事実、
神域と呼ばれる神々しさは、
そこまで強く感じ取れなかった。

神社、という
神域感よりも

雅な舞台として
大衆化している感じは

私も感じた。

だから最初は、
嘆かれている?のか…と
一瞬、そんなな声をきくのかな…?とか
思ってしまってた。


でも、違った。




厳島神社は、

舞を披露する舞台があり、

そのお披露目は、

人々の心に花を咲かせ、

雅に酔い、
美しさに魅せられ、

歓びに心を踊らせてきた。


その、歴史が
きっとその場にはあった。


人が賑い、
その心に歓びを灯すこと、


その宮の神様が、
人の訪れを

怪訝するはずもない。



考えれば分かることなのに。



神の言葉とは、

時に、人の霊性を反映する。


神様に触れることは、

自分自身の、魂に触れること。

自分自身の、霊性に触れること。



その言葉は、
愛に溢れていますか?


全てに向こう、覚悟も

全てを許す、慈しみも


その全てを 
包括するからこその

『神』という次元。


人間の枠を超えて、

人間を包括していくほどの
愛とエネルギー。




日本人は守って、外国人は守らない。

そんな次元で、神様とは呼ばれはしない。


人に差異はなく、

ただ、純粋に霊性を、視られる。



初めて宮島に訪れた外国人も、


幼い頃から宮島に住まう日本人も、


経歴ではなく
『心』を、見られるのだろう。



日本人にしても
外国の方にしても、

マナーのない人
礼儀の欠けた人というのは、 

国籍関係なく存在する。


マナーを守れない、
礼儀を怠り、
神様にも人にも
不快を与える未熟さというのは


人の心の問題である。


それを嘆かれることはあるだろうが、


人で賑わう宮島を、

拒まれている感じはしなかった。


未熟を嘆かれるだろうけれど、

人の集いと歓びは、純粋に喜ばれている。


人の持つ、
歓びのエネルギーを。



そんなふうに、私には感じられました。






夜の厳島神社は
美しく、

また、
夜の神社の恐さもあった。




一瞬、進むことをためらったほど。



朝、人少ない境内に、参拝へ。

神々しさというか、

山の神様のような畏怖は、
さほど感じず、

強さというか、
私が好きな修行系の
矯正感はなくて。

ただ、

美しく、優しい

心地の良い空間でした。





よくスピリチュアル界隈では

厳島神社は、

神様が嘆いている、

人の念で汚れ、憂いている、

という話を聞いていた。


行ったこともない、厳島神社。

自分にはどう見えるのか?


どんな場なのか?

とても楽しみに訪れた。


朝、昼、夜

すべての顔が視られるように、

宮島に宿泊をして。





そうして、
私が聴いた言葉は、



人への愛。


それでした。


旅の帰宅を祈願した私に、


お守りを勧めてくださった。

『持っていくと良い』と。

人の身を案じ、
慈しみを与えてくださってる。



人の心、

人の思いやりに、

国籍は関係ないという事実を

宮島で時間を共にする
外国人の方々とのふれあいの中で、


その御縁の中で、

教えてくださった。


スピリチュアルの界隈では、
観光化することを嘆く人がおられるが、


悪いのは
人の往来ではない。


人の霊性の未熟さである。

相手を尊べない、その愚かさである。


『相手』とは、

人だけではなく、


神であり、
物であり、
土地であり、
空間であり、
歴史である。




人の心に、

未熟さを律する心は

国籍ではない。



外国から来たのなら、

そこに敬意をはらい、訪れよう。


日本人として迎えるなら、

どうぞ素晴らしい経験とと歓びを、と、

この地に来られた事への
御縁と感謝で、おもてなすだろう。



ただ、
それだけのことなのだ。


何も難しいいことなどない。


ただ、


『愛と礼儀をもって、接する』


それだけなのだ。