この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




高遠豪は、
ほう
と息をつく。



瑞月の姿を確かめて
初めて
戸を開けるまで
息を詰めていた自分に気付いた。




1年前、
駆け込んだ更衣室。
ひそとも声はしなかった。
シャワー室かと奥に走る目に
それは映った。

ロッカーの谷間
暗い影に浮かぶ
白い体…………。




脳裏を掠める無惨な映像を
高遠は
真っ正面から見詰めていた。

瑞月の友人として生きると決めた日から
こんなときは、
いつも
そうするようになっていた。





〝絶対見たくないものは
    壊れた瑞月だ〟

それを確かめながら
瑞月を見詰めることが
高遠の柱だった。






ほう
息を吐くと、
足音を忍ばせて
瑞月の枕元に向かった。




くるんと丸くなって掛け布団に
顔を埋めるようにしている。

足元に丸くなる黒猫が
ちらと
高遠を見上げた。




小さな顔は
半分隠れ、
泣き寝入りした子どものように
愛らしい。

ただ……

この子は、
髪も乾かぬうちに寝入ってしまったのか?
額にはりつく髪が濡れている。




高遠は、
そっと枕元に座る。


 やはり、
 入浴中だったんだ。
 それで庭伝いにお勝手まで聞こえたんだな。




瑞月は
このところ
喜怒哀楽をはっきり出す。

一見
ちょっと拗ねて泣き寝入りした姿に
見えなくもない。


 


ウウ……ン


高遠の気配に
瑞月は
反応した。





寝返りを打ち
枕元に向けられた可愛らしい顔に
幸せそうな笑みが浮かぶ。

目を閉じたまま
まっすぐに己に飛び込んでくる瑞月の微笑みは
高遠を幸せにした。



 たけちゃん……か。

 俺を呼んだのか?
 …………来たよ。
 

高遠の手が
瑞月の頬へと動き、
止まった。



〝海斗……。〟

うっとりと開く唇に
己の名前は呼ばれなかった。




心臓が
ぎゅっと掴まれる。
頬に伸ばした右手は
握りしめられ
痛い。





高遠は、
目を瞑る。
その笑顔は見られなかった。


〝絶対見たくないもの
 絶対見たくないもの
 ……………………。〟


心に繰り返す呪文も
いつしか
その笑顔にすり代わりそうなほどに
その笑顔は辛かった。






〝海斗!
 ちがうよ!!〟



突然の切羽詰まった声とともに
胸にぶつかってくる柔らかなものを
危うく抱き止めて
高遠は我に返った。



瑞月の目は見開かれていた。
見開かれ、
高遠を見上げていた。

その目にあるのは
あの人に訴える〝ぼくを見て〟だった。




「瑞月!」

高遠は
呼んだ。
〝俺を見て〟
呼んだ。

 瑞月
 瑞月
 ……

何とかしてやりたい
もどかしく
呼ぶが
瑞月には届かなかった。





必死に訴える瑞月は
高遠にすがったまま
また
目を閉じる。


その頬を
つーーーーーーっ
涙が流れた。


「助けて
 誰か
 海斗を助けて
 ……たけちゃん!

 ………………お願い。」



瑞月の体から
ふっ
力が抜けて
高遠の胸に崩れる。


反射的に支えた腕にひっかかり、
ゆらゆら揺れる。


高遠は、
瑞月を抱いたまま
じっと踞る。


このまま
時が止まってしまえ
いうように
高遠は動かなかった。
石のように動かなかった。



黒猫は
そっと
その手の先をなめた。

ただ
繰り返し繰り返しなめた。



 





奥の廊下の
そのまた奥に
その間は
新緑に抱かれていた。



長と巫が契りを交わす床は
この間にとられた。

屋敷にみとられながら
長はその伴侶に己を埋め
巫はその身に長を受け入れ喜びに震えた。


今、
長は
ただ一人
そこに端座する。


身なりは
着物に改めていた。
行灯の灯りを受け
その横顔は
どこまでも静かだ。


長は待っていた。



長の面が
わずかに上がる。


「海斗さん
 高遠です。

 開けます。」



襖は引かれ
そこに
高遠は立っていた。

「瑞月が
 待っています。」

高遠は
それだけを言い
踵を返した。



「お前が長となれ。
 高遠。
 瑞月は
 お前なら受け入れる。

 総帥は俺が務める。
 引き受けたことだ。
 投げ出しはしない。」


高遠は
歩き出そうとした足を止める。


「いやです。」


振り向かず言い捨てて
そのまま
その背は
一刻もそこに留まりたくないように
去っていこうとする。




「俺は闇だ。
 少なくとも闇を抱いている。」

鷲羽海斗の声が
その背をとらえ、
有無を言わさぬ重みを
染み通らせる。



高遠は止まった。



「話したい」

鷲羽海斗は、
静かに
乞うた。



高遠は振り向き
襖の外に
膝を揃えた。



「何があったんですか?」


高遠は尋ねる。
その顔の厳しさは
高遠を知る者が見たなら
さぞ驚くだろうと
思わせるものだった。


何でも受け入れながら
いつの間にか
周りを整えていく太陽の明るさは
そこにない。


今の高遠は、
ただ唯一のものしか
容れる余地がなかった。


〝瑞月が壊れた姿を
 見たくない〟


長と巫が
一つとなる間。
その襖を隔てて
二人の男は対峙した。




「瑞月は
 意識を失った。

 俺の体に瑞月は崩れた。
 それは感じた。

 俺が手を下したのかもしれない。」

鷲羽海斗は
淡々と
語る。




高遠は
しばし返答につまり、
その言葉を受け止めた。


「なぜ
 〝かもしれない〟なんですか?
 そこにいたのでしょう?」



高遠は
静かに問い質す。

〝お前が長になれ〟
いう言葉の重みが
高遠に
ようやく届き始めていた。



「湯殿が突然消えた。
 湯殿の俺が何をしていたか
 わからない。」


鷲羽海斗は
わかっていることの少なさを
考えていた。
答えは短くなる。




高遠は
掘り下げる。

「あなたには
 何が見えていたんですか?」


答えは淡々と続く。
瑞月を高遠に
肚を決めて
鷲羽海斗はしんと心が静まったように
感じていた。



「12の俺になって、
 亡くなった母を見付けていた。

 俺は12のとき、
 池に身を投げた母を
 見つけた。

 そのときに戻っていた。」


高遠は
また
しばらく考える。


「お母さんと瑞月は
 重なりますか?」

「いや。」


その答えの確かさに
高遠は
今の長を見詰め
しばらく見詰め
下を向いて
ため息をついた。


その高遠に構わず
鷲羽海斗は
自分なりの結論を続けた。


わずかの間に
それは確信となっていた。


「俺は
 瑞月を道連れに
 死のうとする。

 そうさせようとするものが
 俺に植え付けられているようだ。」



高遠は
下を向いたまま確かめる。

「なぜ
 植え付けられたと?」



今度は
鷲羽海斗が躊躇った。

高遠は俯いたまま待ち、
鷲羽海斗は目を伏せて言葉を選んだ。


「………………。
 男がいた。
 母は…………男が消えて
 心が壊れた。


 その男が現れてから消えるまで
 俺は記憶がはっきりしない。

 男の顔は
 何度か見ているはずだが
 そこだけが闇に沈むように
 浮かんでこない。

 ただ…………。」


鷲羽海斗は言葉を切った。
高遠は顔を上げる。


「髪が長かった。
 腰まで届くほど……長かった。

 声は
 高かった。
 歌うように高い声で
 母に語りかけた。」


二人は見詰めあう。
たがいに
同じ姿を思い描いていることは
分かっていた。


音楽室に現れた面に顔を隠した男。
デパートに現れ
ホッテルに現れた男。


 勾玉の記憶は
 瑞月に宿り
 無惨に苛まれ弄ばれた幾多の夜は
 瑞月を悪夢に苦しめた。


 悪夢の夜、
 鷲羽海斗は
 腕の中で為す術もなく何者かに凌辱される瑞月をただ抱き締め、
 高遠豪は
 その様を見詰めた。
 瑞月を起こそうとする武藤を抑え
 ただ見詰めた。



ふっ
高遠が笑った。
いつもの高遠の笑顔だった。
そして、
顔を引き締める。



「話してくれて
 ありがとうございます。

 すごく辛いことです。
 話していただけたこと
 大切に受け止めます。

 あ、
 手を下してってのは
 まずないと思いますよ。
 傷一つない。
 気持ちです、たぶん。

 瑞月は
 お母さんのこと知っていますか?」


誘い出されるように
総帥は応えた。


「祭儀の夜、
 俺の記憶を瑞月は遡った。
 見ている。
 理解できたことばかりではないと思うが、
 共に眺めた記憶だ。」



高遠が
また
ちょっとどこか痛むような顔をする。


「瑞月は
 あなたを守ろうとしています。

 眠ってても
 それしか考えていません。

 うわ言に
 言うんです、
 あなたを助けてって。

 だから来たんです。

 あれは
 もう
 祈りですね。
 透き通るように綺麗でしたよ。

 海斗さんは手を下したりしていません。
 帰ってこなかっただけです。」


鷲羽海斗の表情が
かすかに動く。
笑おうとするのに筋肉がついていかないような不器用な顔は、
高遠の言葉を受け入れていいか迷うように
揺れていた。



高遠は
声に真心をこめる。



「いいですか?
 水澤先生が仰有ってました。

 勾玉は今を生きる心を映すって。

 瑞月はあなたを選んだ。
 自分の意思で選びました。

 自分が愛するものを
 言われるままに取り替えるなんて
 できませんよ。


 今を生きる自分を見失わないこと
 それぞれが
 自分の生を懸命に生きることが
 闇を遠ざけるそうです。」

高遠は
長たる男を見詰めた。




「今を生きる……か。」

長は
ふっと扉が開いたように
視線を巡らす。



その視線を捉え、
高遠は
さらにダメを押す。


「闇は
 先をある程度読めるのかもしれません。
 そのために
 そんな酷いことをした。
 そうとも
 考えられます。

 でも、
 闇は心に宿るもので、
 心は俺たちがしっかりしていれば
 奪われたりしません。

 今は
 海斗さんが試されてるんじゃありませんか?」


試されている。
それに応えてどうするのか。
そこが肝心だった。


考え込む総帥に
これでよし!
高遠が立ち上がる。


「もう一度言いますね。
 瑞月は
 あなただけを待ってます。

 眠り姫みたいでした。
 行ってあげてください。」

歩き出す高遠を
もう
総帥は止めない。
ただ考えに沈んでいた。




高遠は
自分で立ち止まった。
くるっ
振り返り再び総帥に向きあう。

立ったままだ。
やや斜めに重心を崩し
口を開く。


「あ、
 カチンときたから
 これだけは
 言っときます。」




鷲羽海斗は
静かに
再び
姿勢を正した。





若い狼は
群れの長に向かい唸り声を上げた。

「俺に長になれ!
 ってことは、
 瑞月を抱けということですか?」


その目は
不穏な色を秘めて
暗く燃えていた。



総帥は
受け止めて
見返す。
その眸にも
ぽっ
暗い炎が宿った。



 
「俺は瑞月が欲しい。
 それは変わりません。
 欲しがらずにいられないんです。

 ただし、
 俺が欲しいのは
 俺を選ぶ瑞月です。
 そして、
 瑞月はあなたを選んだ。

 だから、
 俺は何が俺の一番の望みか
 考えたんです。

 俺は
 瑞月の笑顔を望みます。
 今は
 それだけを考えて
 自分のすべきことを
 考えています。

 忘れないでください。」


二頭の狼は
たがいを測るように
距離をおいて
火花を散らした。



長たる一頭は、
すっと
床の間の前を外れ
改めて姿勢を正し、
深く一礼した。


「ありがとうございます。
 非礼を
 お詫びします。」



「失礼します」

高遠は
踵を返した。

 ああ
 夕食……。
 まあ咲さんが
 なんとかしてくれるか。

 まず起きないとな
 瑞月

もうその心は
次へと
動き出していた。



鷲羽海斗は
静かに立ち上がった。




 一番の敵は己か……。

打ち克つこと。
そこにしか活路はない。


己が破れたとき、
その宝はどうなるのか。

闇に凌辱される瑞月が浮かんだ。

絶対に見たくないものがあるとすれば
それだった。

そうであるなら
誰に譲ることも誰に渡すことも
選択にはない。


鷲羽海斗は
若く猛々しい狼の炎に
改めて
それを噛み締めていた。


眠り姫は俺のキスを待っている。
恋人の眠る場所に向かい
総帥は歩き出す。



イメージ画はwithニャンコさんに
描いていただきました。



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