この小説は純粋な創作です。
実在の人物・団体に関係はありません。




勝手口は
その家の日常だ。



ひょこん
顔を覗かせる子ども。

そして、
立ち働く女衆から
口々にかかる声。


「瑞月さん
 まあ
 お着替えしたの?」

「お似合いですよ。」

………………。



勝手口から脇に続く広敷では
もう早番の衆が食事を済ませて
飛び出していく。

座敷に待つ家人は
老人と大人びた少年の二人。
客人の帰られた母屋は
もう日常の顔を取り戻していた。



いや
変わらぬものを日常というなら、
違うかもしれない。



「海斗!
 ぼく
 包丁も使えるようになったんだよ。」

「まだまだだよ。
 危なっかしいんだから。」

自慢げに
後ろを振り返る瑞月の〝包丁〟は
総帥の肯んじるものではない。

座敷からかかる高遠少年の〝まだまだ〟も
同様だ。




「包丁はだめだ。
 怪我でもしたら、
 ショーに障るだろう?」


目の前の瑞月に応える言葉にしては
やけに〝だめだ〟に
アクセントがきいている。

座敷まで
お勝手まで
広敷まで意識しているのだろう。




鷲羽財団総帥
鷲羽海斗は、
変わり行く日常に振り回されている。




「何でもできるようになっておくのは
 大事なことです。」

そして、
円熟した女性の声が響くのが、
日常の日常たるところだ。


変わり行く鷲羽にあって
日常は
この声にある。


この声が歯止めをかけてくれたなら、
変化は瞬時に止まるだろう。
誰しも怖いものは怖い。


財団の行方は総帥の腹に決まるが、
こと屋敷内となれば、
天宮咲の鶴の一声の前に
総帥の意向など無きに等しい。




「総帥も
 お料理はお得意では
 ありませんか。

 瑞月も
 それに倣わせます。」


咲は
この冬以来、
ある意味ひどく公平を欠くように
なっていた。



ここまでは、
アルカイックスマイルに
美しく揺らがぬ面が
総帥を捉えて
語られた。


そして、

瑞月の眸を
その目が捉えるや、
口角は柔らかく角度を上げ
頬は優しいラインを描く。


「生きるに〝食べる〟は
 欠かせません。
 
 瑞月、
 これからも頑張りなさいね。」


最前までが戦の女神カーリーなら
後半は慈母観音か聖母かだ。



屋敷では
誰もが
瑞月が一番であり、
咲の不公平は皆の不公平でもある。



不公平に
誰も文句はない。



問題は
育ち直しも進み、
折れた翼も健やかにはばたくようになった今、
 どこまでチャレンジさせるか
 どこからがお預けか
認識の食い違いに生じる。


誰の?
総帥と天宮補佐のだ。




何事も
屋敷内の全て、
咲の意思をもって屋敷の方針とするのが
鉄の掟にして不文律だ。



だというのに、
いちいち総帥が無駄な抵抗をするため
女衆は
毎日
笑いをこらえるのが大変だ。
そこは
笑わないのが情けというもの、
皆よく耐えている。



が、
今は、
総帥にも
一分の理がある。


 お前ら
 その行儀見習い
 どうすんだ?!


 
これだ。

何しろ
総帥とその支援する少年が
実は生涯を誓ったカップルです
などと
なかなか世間に通用するものではない。


余所者を受け入れるなど論外、
その余所者と
現在の推定精神年齢は幼児か小学生かという瑞月を一緒に置くなど
正気の沙汰ではない。

という
大変もっともな理屈が
総帥にはついている。



「いや
 ショーまでは
 すぐです。
 終わりましたら
 包丁も持たせますから。

 勉強もありますし、
 当分は私の側に置きます。」



行儀見習いを前に
まさか
本当の理由は言えないだろう?

そんな
含みが声に滲んで
〝置きます〟宣言となるのだろう。

これで話は終わりだ!
総帥は
そそくさと伴侶を連れて
上がり口へと進む。


咲の前を通過したなら
もう
何も心配はない。

そう
それが日常というものだった。

が、
そうはならないのが
この頃の常だった。


「そうじゃのう。
 大忙しじゃ。

 瑞月ちゃんは
 こちらで預かるよ。」


総帥は、
ようやく上がった板の間から
座敷を凝視する。

老人がにこにこと
前に立つ瑞月に
笑い掛けている。



「ほんと?
 嬉しい!」

ぴょん
跳ねるや
瑞月は飛んで行く。

 この頃
 こうして走っていく背中を見送ることが
 ずいぶんと多くなった。

ぼんやり
そんな考えが
総帥の頭に浮かんだ。


高遠が
瑞月を笑顔で迎えながら
こそこそ老人の膝をつついている。

それは、
制止だったのだろう。



老人は
飛んできた瑞月を横に置き、
まあまあ
高遠に頷いて
改めて総帥に向き直る。



「ちょうど
 同じ年頃の子が
 入ったんじゃ。
 一緒に
 女衆に見てもらえばよかろうさ。

 瑞月ちゃんとは
 気もあってのう。

 なあ瑞月ちゃん」


 高遠は
 老人を制止しようと‥‥してくれた‥‥。


無駄だったのは
誰のせいでもない。


老人は、
用心すべき相手だった。
間に合わないながら、
総帥は
それを噛み締めていた。





「お呼びになりましたか?」



己の脇を
濃紺色の影が駆け抜ける。


ぴたり!
畳に膝を揃えた姿は
さすがは
お嬢様である。






瑞月は
甘える仔猫全開だ。

 ほんとに
 仔猫を見るようだ
 ……かわいい。

前肢に
体重のっけて
おねだりするポーズに
総帥は
こんなときにも
心を奪われる。



「おじいちゃん!
 ぼくも一緒に
 ギョウギミナライするの?」



総帥は、
振り向いてもくれない恋人の後を追い
自席に座る。

小さな卓にはなったが
一人で座らせられない瑞月の席は
酒の出ない昼食では
自分の隣に設けてあった。


なかなか戻らない伴侶の席を眺め
ほう
ため息をつく。

無敵の総帥といえど、
口から出た言葉を消す力はない。
もはや
眺めているしかできない。


 咲さんが決めたことだ。
 何とかなるのだろう。
 何とかならなかったことはない。


悩める狼の風情は、
そのシャツからチラリと覗く胸元から
まくった袖から
何より
かすかに眉を寄せた端正な顔から
座敷いっぱいに放射された。



女衆は
こういうときは
脳内録画機能で対応し
立ち居振舞いに出したりしない。




が、
綾子お嬢様は
違う。


まず、
総帥の姿に
ますます姿勢がよくなる。


ちら
横目で総帥を確かめて
綾子様は
宣う。


「私はお仕事です。
 あなたとは違います。」


瑞月が
え?
驚く。

「さっき
 一緒に皮剥きしたじゃない。」


綾子様の眦が
きりり
上がる。


「私は
 ちゃんと包丁使えます!」

昂然と頭を上げ、
お嬢様は
違いに拘った。




くすっ
高遠が笑う。


「そうだね。
 瑞月、
 お前は
 俺と雑巾がけから
 頑張ろうぜ。」


綾子お嬢様は
みるみる真っ赤になった。


「お雑巾は……あの……
 初めてだったのですもの……。」

瑞月が
キャッ
喜ぶ。

「ぼく、
 雑巾がけできるよ。
 教えてあげる。」


その雑巾がけがどんな程度かは
綾子様の包丁さばきと
おっつかっつというところだろう。



「おいで
 瑞月」



総帥が終結を宣言した。
瑞月は機嫌良く
総帥の隣に収まり
綾子様は名残惜しげに
総帥の姿を見詰める。


行儀見習いの綾子様は
広敷に呼ばれ、
家人のカレーはよそわれ
ともかく食事は始まった。




〝瑞月とあの子には
 しておけないな。
 危なっかしい。〟

総帥は
高遠少年に
さりげなく見張りを頼み、

〝1週間だったな。
 1週間!〟

老人に
ドスの利いた声で釘を刺す。


「では、
 午後はスケートが終わったら
 瑞月も
 母屋においでなさい。
 総帥も私もお仕事があります。

 お夕飯が済んだら
 洋館に戻るのよ。」

最後の〆に
咲が宣言した。


日常とは
こんなにもスリリングなものだったろうか。


総帥は
ひどく消耗した気分で
昼の栄養補給を終えた。




 〝これ、
  ぼくが切ったんだよ〟
 と
 瑞月が差し出すプチトマトに
 あーーんをし、
 予想通り箸から落ちるそれを
 片手でキャッチし、
 〝頑張ったな〟
 と
 口に放り込む。


 〝次は
  ほんとに一人で作りたいな〟
 と
 はしゃぐのには
 〝一緒に作ろう〟
 と
 かわす。



行儀見習いの目を離れて
それはそれは幸せな時間を過ごしながら
狼は思う。



秘密とは
やっかいなものだ。

特に
恋人に
それを秘密と感じさせてはいけない秘密は。


狼は
だから
ため息をつく。


そして、
そのため息をつく姿に
女は愁いの影を感じてときめく。


そんな己の魅力には
これっぽっちも気づかぬ狼は、
ため息を繰り返す。


思うようにならない恋人にも
手間ばかりかけさせる老人にも
絶対逆らえない慈母観音にも
総帥の憂鬱は続く。


画像はお借りしました。
ありがとうございます。


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