電子の波は、見ると消える? | すずき院長のブログ

電子の波は、見ると消える?

神田川のほとり、関口芭蕉庵に向かう胸突き坂の反対側に、小さな水神様が鎮座している。


ご神木の大銀杏の石段を登るとコンクリートの小さなお社(やしろ)があり、その境内が子供の頃の遊び場であった。しめ縄の内側の鉄製の扉はいつも施錠され、鉄格子の隙間から覗いても何も見えなかった。


やがて、鉄の扉の中にどんな神様がいるのか見たくてたまらなくなった。が、町会の定期清掃のとき、遂にそのチャンスが到来した。そっと覗くと、小さな祭壇に鏡のようなものが置いてあるだけで、子供心にがっかりした記憶がある。



ところで、わが国には三種の神器と呼ばれるお宝がある。


代々の天皇が皇位のしるしとして伝承する八咫鏡(やたのかがみ)、草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)である。『古事記』や『日本書紀』に従えば、その由来は天孫降臨(てんそんこうりん)に際して、天照大神(あまてらすおおみかみ)から授けられたものとされている。


天皇家のお宝なら皇居の何処かにあるはず。


その通り、吹上御所の剣璽(けんじ)の間に、八坂瓊曲玉の実物と、八咫鏡や草薙剣の形代(かたしろ、レプリカ)が保管されている。


では、八咫鏡や草薙剣の実物は何処に?


前者は天照大神の御神体として伊勢神宮の内宮に、後者は熱田神宮の奥深くに、それぞれ奉安されているらしいのだが、確かめた人はいない。三種の神器の箱を開けて本体を見ることは決して許されないからである。


でも仮に、三種の神器の箱を開けて人間が実物を見てしまったら?



再び量子論に戻る。


シュレーディンガーは波動関数を通して実在する電子の波にこだわったが、ボルンは、波動関数は電子が発見される確率を表すと解釈した。ボーアを中心とするコペンハーゲン学派はボルンの確率解釈を受け入れ、原子内における電子の粒と波の二重性について、さらに奇想天外な解釈を唱えた。


即ち、我々が見ていないとき、電子は広がった波として存在する。その時、電子は広がったすべての場所に同時に存在する「重ね合わせ」の状態にある。だが、我々が見た瞬間、重ね合わせの状態が1点に収縮し、1個の電子となって現れる。


つまり、我々が発見するのは波が収縮した瞬間の電子であり、それが何処で発見されるかは確率的にしか予想できない、言わば神がサイコロを振った偶然の現象でしかないというのである。これが「波動関数の収縮」という考え方である。


まるで雲をつかむような話なので、少し戻って仕切り直そう。


水素原子の原子核の周りには1個の電子が存在する。ボーアは電子の粒が複数の軌道を周回するとしたが、ド・ブロイは波長の異なる電子の波がうねっていると考えた。シュレーディンガーは波動力学によって電子雲をイメージしたが、ボルンは波動関数を電子の存在確率に置き換えた。


問題はここからである。ボーアらの言う「重ね合わせ」の状態とは何か?


仮に、水素原子の電子雲が電子100個分の広がりであったとしよう。「重ね合わせ」の状態とは、電子雲の100か所すべてが電子で埋まっているのではなく、100か所のそれぞれに1%ずつの確率で電子が存在しているのでもない。100か所のすべてで、1個の電子が共存する状態を指している。


だが、同一の電子が複数同時に存在することは現実にあり得ない。


専門家は、波動関数同士は足し算が可能という数学的特性によって重ね合わせを説明するが、現実に電子の何がどう重なっているのかは分からない。


今度は実験のイメージで考えてみる。まず、ボルンの思考実験から。


個の電子を箱に入れたと想定すれば、電子の波はシュレーディンガーの方程式に従って箱の中で均一に広がる。この時、箱の左右の空間には電子が重ね合わせの状態で存在し、箱の中央に仕切りを入れた瞬間に波が収縮し、1個の電子が左右どちらかで発見される。


ポイントは、箱の中央に仕切りを入れる前後の状況にある。


仕切りを入れて蓋を開けた時点で1個の電子が箱の左右のいずれかで発見される。仕切りを入れる前は箱の左右で電子が共存していることになるが、我々には観測できないので具体的な状況は分からない。


次は電子の干渉実験である。


電子を1個ずつダブルスリットに飛ばす実験を何度も繰り返すと、スクリーンに干渉縞が得られた。これは、1個の電子が波として二つのスリットを同時に通過し、相互に干渉した結果として説明される。だが、実験系が真空で暗闇のため、スリットを通過する様子も、スクリーンに到達した瞬間に波が収縮して1個の電子となる様子も観測できず、ただ想像するしかない。


この光景を頭の中で組み立てた学者がいる。


ファインマンは、1個の電子がどのようにダブルスリットを通過するのかを観測するため、スリットの近くで電子に光を当てて観測したらどうなるかという思考実験を行った。


ファインマンが出した答はこうだ。


電子の粒に光の粒が衝突した瞬間に電子の波が収縮し、電子の粒に戻ってしまう。その結果、電子が片方のスリットだけを通過することになって干渉が起こらないというのだ。ミクロの世界では観測という行為自体が物理的状況を変えてしまう。これが量子論で言う「観測問題」である。


補足すると、電子の波の姿を確認することは誰にもできないし、本当に波なのかどうかも分からない。ただ、波と考えると様々な謎が解けるのである。


ソーラーパネルの発電は光の粒を利用し、電子顕微鏡は電子の波を利用している。どちらも姿は見えないままだが、現実の効果が実証されればそれでよい。これが科学の立場である。



は戻って、子供の頃、見たくてたまらなかった水神様の正体は一枚の鏡であった。


2000年もの間、日本人は天照大神の神霊が宿る三種の神器に深い畏敬の念を抱き続けてきた。


もし、あってはならないことだが、誰かが三種の神器の箱を開けて中身を見てしまったら?


ちょうど我々が目で見た瞬間に電子の波が1個の電子に収縮するように、天照大神の神霊がたちど

ころに消え、古びた鏡や錆びついた剣に変わってしまうのかもしれない。