大学のキャンパスで健一と香織が出会ったのは、
木漏れ日が優しく降り注ぐ新緑の季節だった。
二人は瞬く間に惹かれ合い、いつも一緒にいた。
文学好きの健一と、快活でしっかり者の香織。
来年4月からの就職先も都内で決まっており、
順風満帆な未来が二人の目の前に
広がっているはずだった。
季節は巡り、今年の秋。
健一は夏から続く体調の優れない日々を
「今年の猛暑の影響が長引いているのだろう」と
軽く考えていた。
香織もまた、日々の忙しさに紛れて、
健一の顔色の悪さや疲れやすさを、
単なる疲労と受け止めていた。
そんな12月のある日、健一の父が口を開いた。
「今年も有馬記念の季節が来たか。
健一、お前は知っているか?
父さんが毎年この時期に話す、あのダイユウサク
を。」
、
健一の父は、毎年12月になると、
平成の有馬記念史に残る大波乱を力強く語るのだ。
「あの年の有馬記念は、まさしく大波乱だった。
16頭立ての15番人気。
誰もが知るG1馬たちを差し置いて、
まるで奇跡のように勝った。
世間では『まさか』の一言だったが、
あの時の父さんは確信していたんだ。
諦めなければ、何かが起こるってな。」
その言葉は、まるでこれから起こる現実を
予言しているかのようだった。
大波乱の診断
11月下旬。度重なる発熱と倦怠感に
耐えきれなくなった健一は、
香織に促され病院を訪れた。
そこで告げられた病名は、
あまりにも冷たく、重いものだった。
急性白血病。
「はかない命」という言葉が、
健一の未来を覆い尽くした。
就職という新しい門出を前に、
彼に残された時間はわずかかもしれないと
医師は告げた。
、健一はショックで立ち尽くし、
香織はその場に泣き崩れた。
病室で、健一は自分の運命を受け入れようと、
、静かに目を閉じた。
彼の世界はモノクロになり、
未来は唐突に閉ざされた。
「ごめん、香織。俺たちの未来、
壊しちゃったな…」
健織の掠れた声に、香織は涙を拭い、
強く握り返した。
「そんなこと言わないで。
、健一、私たちはまだ終わってない。
私たちには、まだ大波乱を起こせる。」
二つの決意と希望
香織は、沈み込む健一を前に、
静かに、しかし決然と二つのことを決めた。
一つは、今年の12月28日の有馬記念に、
健一を連れて行くこと。
「健一のお父さんの話、
覚えてる?ダイユウサクだよ。
、大波乱は起こる。奇跡は起こる。
私たちは、絶対に諦めない。
だから、あの場所に一緒に行こう。
健一の好きな、あの熱気と、
、奇跡が渦巻く場所へ。」
そして、
もう一つは、香織の身体に芽吹いた
新しい命の名前を決めることだった。
実は、健一の体調が悪化する少し前に、
香織は新しい命を授かっていた。
まだ健一には伝えていない、
二人だけの、そして奇跡の予感を秘めた命。
香織は、この子に、健一の父が愛した
「ダイユウサク」にちなんだ名前を付けようと
決めた。
「健一、聞いて。この子の名前は、優作(ゆうさく)
にするわ。」
香織はそっと自分のお腹に手を当てた。
「優作。希望の優に、作って書いて、ゆうさく。
ダイユウサクから、もらった名前。
この子は、私たち二人の愛と、
あの有馬記念の大波乱から生まれた、
奇跡の証なの。健一の命がどれほどはかなくとも、
この子の中に、健一の魂と、
私たちの愛は永遠に残る。」
奇跡の日
12月28日。有馬記念当日。
香織は病院にかけあい、
健一を車椅子に乗せて、
冬の澄み切った空の下、
中山競馬場に連れて行った。
健一の顔は青白かったが、
その瞳には競馬場の熱気が宿っていた。
レースが始まると、
まるで彼の父が語ったあの日を再現するかのように、
大本命が沈み、
誰も予想しなかった馬が先頭を走り続けた。
観客の歓声が地鳴りのように響く中、
健一は香織の手を強く握りしめた。
「香織…大波乱だ…本当に、奇跡が…」
レースの結果がどうであれ、
二人はあの場所にいた。
諦めなかった健一と香織の、
愛の奇跡の空間だった。
翌春、健一は静かに息を引き取った。
はかない命だった。
しかし、その年の夏、
香織は小さな命を産んだ。
「優作、健一よ。お父さんのように、
優しく、強く育つのよ。」
香織は小さな優作を胸に抱きながら、
冬の澄んだ空を見上げた。
そこには、はかない命を愛し抜いた香織と、
新しい命に希望を託した健一の姿が
確かに輝いていた。