42 ⑵ | 想想記

想想記

思い付き

水稲(水田耕作)は、紀元前 約7000年前に湖南省のあたりで発生したと今のところなっている。だいたい今から9000年前だな(ー ー;)
そこから長江流域あたり武漢まで伝播して、そこで拡がり、黄河流域西安あたりまで伝播する。
初期において、水稲の伝播の北限は、この辺だ。
そして、ジャポニカ米系は、紀元前6000年前に発生する。
今から8000年前くらい前か(ー ー;)…

次第に水稲は、長江沿岸を伝って河口域まで拡がる。因みに、これは「黄河文明」ではない。
学校で習ってないが、「長江文明」と呼ばれている。黄河文明と長江文明は、ほぼ同時に発生したとされている。その文明としての違いは何かというと、大きく分けると長江文明は【農耕】で黄河文明は【牧畜・狩猟】になるのだろうか。
もう少しわかり易い違いだと、長江文明は、鉄を使う国のヒッタイト人が住みついて鉄を精製していたので【鉄器文明】でもある。
黄河文明は、【青銅器文明】なので、これの方がわかり易いかもしれない。
でも、結果としては、【青銅器文明】の秦の始皇帝に長江文明は、滅ぼされてしまった。
一般的歴史認識だと鉄器の方が強いと思われているが、初期の長江流域の鉄は、粗悪で武器としては、洗練された青銅器の剣よりも劣っていた。日本刀まで鉄の練度を高めた技術は無かったのだな。
それに【鉄】の主な利用目的は、農器具が専らだったようなので、戦闘に特化したした北方の騎馬民族に太刀打ち出来るとも思えない。
…チョット話が逸れたけど、この様な文明を持った地域から日本に稲が伝わったという事を少し頭の隅に置いとく。

長江河口域まで水稲が伝播してきて、ここから日本に、どの様な径路を通り伝わったのか。

縄文後期~晩期にかけて、日本では、黒曜石の不足と東北地方の寒冷化に伴い食糧不足に陥った縄文人は、移動が起きたと思う(前に投稿した「縄文後期」と「縄文晩期」の図を参照)
特に太平洋側の移動が激しいように思う。
それに呼応するように、九州の天草や熊本に土器に籾を入れた圧力で生じる[籾の圧痕]のある土器が出土するようになる。
有名な遺跡は、天草市の《大矢遺跡》で紀元前5000~4000年前の籾の圧痕のある土器だ。(図.A参照)水田跡は、発見されていないので、陸稲(畠)なのではといわれている。
しかし、陸稲だとしても、何故こんな場所なのだろうか?
私的に思うに、誰かが土器に籾を入れて、天草に運んできていたのではないのか?・・・と思う。
丁度、長江流域で、水稲が発生した頃と重なる。
長江河口域から海流に乗ると島原半島・下島あたりに漂着する。逸れたとしても黒潮乗り日向あたりにに漂着するのではないだろうか。
日本書紀を読むと、よく東南アジア人が漂着する。その度に宴を催したりして、のん気だなぁ♪(*^^)o∀*∀o(^^*)♪・・・なんて話は、どうでもよく、要は、大陸から九州に渡ることが可能だという事だ。(補足.a参照)
私は学者でないので大胆な推測を書く。
かつて伊豆半島 神津島で黒曜石を採取・加工していた集団が、長江河口域まで舟で渡っていたかもしれない。
証拠は、な~んにも無いけど(((o(*゚▽゚*)o)))
でなければ、大陸人が九州くんだりまで、危険を冒してまで海を渡る理由が無いのだから、縄文人が、海を渡るしかないと思うのだが・・・