断夫山古墳
2023年12月17日愛知県名古屋市熱田区旗屋の断夫山(だんぷさん)古墳を訪れた。断夫山古墳は日本武尊(やまとたけのみこと)の妃・宮簀媛(みやずひめ)の御陵と伝わる古墳である。
断夫山古墳の外濠はイチョウの葉っぱの黄色い絨毯となっていた。
そしてぎんなんがたくさん落ちていた。
このぎんなんは臭わないが、やはり動物はぎんなんを食べないようだ。臭いぎんなんを初めて食べようと思った人は偉い。
断夫山古墳を訪れるのは今回で3回目だが、以前もこの看板を読んだのにかつて3月3日には年にたった一度だけ断夫山を登れたということを気にも止めなかった。
すると終始サワサワと爽やかな風が吹き抜けていた。
断夫山古墳は宮簀媛御陵との言い伝えがあるが、尾張氏の首長の墳墓とみる説もあるようだ。どちらが正しいのかは発掘調査しないと判らないだろうけど、やはり言い伝えを信じたい。
断夫山を下りると熱田神宮公園管理事務所の方に下山報告した。その際に断夫山古墳のパンフレットを下さった。
断夫山古墳は全長151m、後円部の直径80m、前方部の幅116mであり、高さは後円部で13m、前方部で16.3mあり、墳丘には円筒埴輪が1000個以上並べられていたと考えられている。
断夫山古墳の近くには伝・日本武尊御陵の白鳥古墳もあるが、日本武尊御陵はあちこちにあるので果たして尊の御陵かどうかは定かではない。
日本武尊の最初の妃は両道入媛(ふたじのいりひめ)、2番目は吉備穴戸武媛(きびあなとたけひめ)、3番目は弟橘媛(おとたちばなひめ)、そして3人の妃がなぜか皆早逝されたようで4番目の最後の妃が尾張の宮簀媛である。
日本武尊と宮簀媛が共に過ごした時間は短かったかもしれないが、ホツマツタヱによると二人の間には佐伯王(さえきのきみ)と武田王(たけだのきみ)の二人の男子が生まれたという。
そして宮簀媛は日本武尊が伊吹山の受難が原因による病で薨去すると尾張氏の館(※氷上姉子神社の元宮の場所)で日本武尊の遺品である草薙剣を奉じて暮らしたが、後に熱田神宮を創建して草薙剣を奉納したという。ゆえに熱田神宮は宮簀媛創建の神社なのである。
そんな偉業のある宮簀媛だからこそ、日本武尊の妃の中で唯一古墳が残っているのかもしれない。
帰り道は断夫山古墳の外周を一周して一礼して去った。
今度から断夫山古墳をお参りする際には必ず登拝することにしよう。