眼が、眼がぁ~

と、毎日某大佐のような状態になってきています。

特に週末が近くなってくると、蓄積疲労で目が本当にしんどくなってきます。

余りの痛みから頭痛に発展して、撃沈することもしばしば。。。

やはり、眼は複製してカートリッジ式にして欲しい。

この痛みは不要です。

撃沈のお陰で、食材を無駄にしてしまったので、マジで止めて欲しい。

 

で、そんな痛みを抱えつつ、やっぱりメインはPCな生活。

何しろ、周りはまだコロナ禍とやらで、緊急事態宣言下です。

真面目に、20:00ジャストにお出かけすると、お店は皆閉じています。

スーパーかコンビニしか選択肢がない。

こっちの精神攻撃の方が、よっぽど堪えますね。

この辺りは毎日美女か美少女が(もしくは美男、美少年、は確率的には低いのか)、衣食住整えてくれるリア充には分かるまい(爆)、

 

もうミールキットでも買うか?です。

何か難しい調理をする気力は週後半には無くなるため、簡単に出来るやつが良いです。

出来れば、栄養がバランス取れている奴。

タンパク質は最悪プロテインで補充しますし、ビタミン類・ミネラル類もサプリで補充するから、美味しいやつ~。

ストレス満載ですねw

 

さて、前回までの「今川義元編」!

Previously Story of Yoshimoto Imagawa!(ElementarySeason6はたったの13話で終了。次はMacGyberです!主演が段々皆年下になってきた・・・orz)

 

 

1. 序章(完了)

2. 今川氏親及び家族(完了)

3. 太源雪斎(完了)

4. 飯田河原の合戦(完了)

5. 今川仮名目録(完了)

6. 尼御台と織田信秀と松平清康(完了)

7. 京都上洛と万沢口および山中湖の合戦(前回)

8. 雪斎立つ!義元誕生-花倉の乱(今回)

 

1. 氏輝の死

2. 雪斎立つ!義元誕生

3. 花倉の乱

 

1. 氏輝の死

1535(天文4)年、万沢口の合戦を乗り切った今川氏輝は、徐々に駿河、遠江今川領を固めつつありました。

この頃は両国合わせて約70万石程、1万石辺り400人くらいの兵力で総兵力28,000人位かと思われます。

また、ボツボツと東三河に乗り出そうとはしていますが、何しろ武田信虎が居るので中々そちらに注力する訳にも行きません。

 

翌1536(天文5)年、正月に今川家で歌会始が行われ、去年から下向している冷泉為和(ためかず)も招かれた席に義元(当時は承芳(しょうほう))も出席したそうです。

氏輝、義元ともに為和から和歌を学んで居たそうで、この辺りは今川氏の文化人な現れであると同時に、中央権力との結びつきも垣間見えます。

翌月、氏輝為和北条氏綱の招きで小田原城に行き、一月以上歓待を受けたそうです。

万沢口の合戦の戦勝?祝いですね。

まだ両家とも伊勢宗瑞以来の仲の良さが残っていた頃ですね。

 

所がこの後、氏綱に健康を心配されたとかで熱海の温泉に出向いた辺りから氏輝の体調がおかしくなります。

3月に帰還すると、そのまま寝込んでしまいます。

どうも具合が悪く、しかし原因が分からぬままに、と言うところに、義元が名代として送った雪斎が来る、と江宮氏の小説ではなっています。

結局、彦五郎が毒を持っていた、となっていますが、実際のところは全く分かりません。

わかっているのは、この3月に氏輝は死亡し、彦五郎は出奔した、だけです。

他国の人の記録だと、二人とも死んだ、と言う記述もあるそうです。

兎に角、今川氏は折角の統領を失い、また何かあった際の人まで同時に失ってしまいました。

 

2. 雪斎立つ!義元誕生

さて、この事態に即座に動いたのは「尼御台」とも呼ばれた寿桂尼(じゅけいに、氏親の正妻にして氏輝、彦五郎、義元の実母)です。

雪斎に「承芳(よしもと)を後継ぎに据えたい」と直ちに手紙を送ったそうです。

雪斎は「尼御台とも呼ばれたあなたのご尽力が必要です」と答えた、と小説ではなっていて、その尼御台は直ちに将軍家に手紙を送りました。

承芳を後継ぎとし、将軍家から偏諱(へんき、名前から一文字を与える事)をいただきたい、と。

当時の将軍は12代目の義晴(よしはる)で、与えられた文字は「義」の方です。

これは「晴」を与えられるより名誉と言うか、格が上がる感じです。

 

なので、氏輝の輝はちょっと微妙です。

本来、偏諱の文字は必ず上に来ますので、「輝氏」じゃないとおかしい。

毛利輝元とか伊達輝宗のようにです。

うーん、それに今川仮名目録で将軍家の支配体制から独立した、と私は紹介しましたが、偏諱を求めていますので、ちょっと良く分かりません。

もし本当に独立したのなら、義教鎌倉公方持氏を攻め滅ぼしたように、激怒しているはずですしね。。。

 

3月下旬に馬周り衆の岡部元信に守護されて義元駿河館に入り、5月上旬には将軍家から将軍義晴から「今川五郎の家督相続を認め、将軍家から諱を与える」との正式な書状を受け取ったそうです。

ここに今川義元が正式に誕生します。

この時義元と家督争いをしそうなのは三男の玄広恵探(げんこうえけい)と四男の象耳泉奘(しょうにせんしょう)で、しかし二人とも正室の寿桂尼の腹から生まれてはいません。

六男の氏豊も妾腹で、織田信秀に城を奪われて、京都に逃げてしまいました。

この中で、玄広恵探の方は機略縦横であり、義元と並んで氏親から評価を得ていました。

それに、バックに福島一族が居ます。

 

ただし、義元恵探は非常に仲が良かったそうです。

二人とも年齢も近ければ性格も似ていたそうで、おまけに二人とも才知に恵まれてましたので、良い遊び相手だったのでしょう。

 

ここで、雪斎が本格的に動き始めます。

今川家の運営に雪斎が口を出し始めるのは、この頃からだと言われています。

どうも犯人は福島一族のようだ、と目途が立ったため、先ず強敵になりそうな武田信虎北条氏綱に手紙を出します。

氏輝が不慮の死を遂げ、義元が後を継いだが反乱分子がいるので粛清する、どうか力を貸していただきたい」と。

この時信虎は明確な敵対勢力で、氏綱は親戚同然(正確には紛れもなく親戚ですが、令和で言う仲が良い親戚)でした。

それなのに両方に出したのは、最悪でも両者は敵対関係にあるため、両者ともに今川家の敵になることを防ぎたかったからだとされています。

それにもし両者のどちらかが犯人だった場合、手ごたえでそれが分かる、と言う中々二重三重の謀略です。

所が、何と両者から味方する、との返事が来ました。

この時、特に信虎に対しては寺社つながりの連歌師に活躍してもらったそうですが、中々雪斎は知恵者、と言うのを実感してしまいます。

 

3. 花倉の乱

そして5月下旬に、終に恵探を担いで福島一族花倉城片ノ上城にこもって挙兵します。

花倉の乱と言われる争いです。

始めは寿桂尼が将軍家からの手紙を持参して、福島一族を説得しようとしたそうですが、当然ながら全く受け付けず、戦端は開かれました。

 

義元側には駿河及び遠江の一部の国人衆、恵探側は主に遠江の西側の国人衆が味方したそうです。

但し、義元側には北条氏からの援軍も出たそうで、兵力的にはかなりの開きがありました。

この合戦で活躍したのは岡部綱親(つなちか、元信の父親)で、両城とも綱親主導の下、陥落させたそうです。

 

6月には決着がついたそうで、比較的短期間で乱は終わりましたが、文字通り今川家をほぼ二つに割った大動乱でした。

短期間で済んだのは、雪斎の前準備が非常に良かったためでしょう。

後、万沢口の合戦を始め、そもそも義元は将器に恵まれ、国人衆からの支持もあったことがあると思います。

恵探は落城後に切腹し、福島一族甲斐の国に一部が逃れたそうですが、信虎は激怒して皆殺しにしてしまったそうです。

もっとも、これも後で駿河に流される一因になりますが・・・

 

この事件で、義元の将器と雪斎の謀才が近隣諸国に知れ渡りました。

これが良いかどうかは不明ですが、この後義元雪斎駿河遠江を固めて、の筈が、やらかしてしまって北条氏と断交状態になってしまいます。

これも雪斎の遠大な計の一部なのかもしれませんが、中々凡人には分からんことです。

 

つい最近活動停止になったSuchmosStay Tune

これは10年前位の曲でしたっけ?

一時期はもっともチケットが取れないバンドとか言われてました。

日本人にしては珍しくPVが公式アカウントにあります。

全員こうして欲しい・・・