今から十回程度、念仏を唱えてみて下さい。

 

そう言われたら、あなたは、どんな念仏を唱えるでしょうか。おそらく多くの方は、このような念仏を唱えるのではないでしょうか。

 

南無(なむ)阿弥陀(あみだ)(ぶつ)

 

南無阿弥陀仏という念仏は、浄土宗の開祖である法然上人が、生涯をかけて伝え広めたものです。法然上人の弟子であった親鸞聖人もまた、生涯、この念仏を伝え続けました。

 

親鸞聖人にとって、南無阿弥陀仏の念仏こそが、この世界でたった一つの真実だったのです。そのことを親鸞聖人は、このような言葉で教えています。

 

【原文】

煩悩具足の凡夫火宅無常の世界は、よろずのことみなもって、そらごと・たわごと・真実まことあることなきに、ただ念仏ねんぶつのみぞまことにておわします

歎異抄(たんにしょう)

 

【意訳】

燃えている家の中にいるような不安な世界で、煩悩まみれの人間のすることは、全て、そらごと・たわごとばかりで、真実など何もない。ただ一つ、南無阿弥陀仏の念仏のみが、まことである。

 

南無阿弥陀仏。文字にして、たったの六文字です。この短い言葉のどこに、それほどの価値があるのでしょうか。

 

蓮如上人は、南無阿弥陀仏がいかに尊いものであるかを、このように教えています。

 

【原文】

南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)(もう)文字(もんじ)は、その(かず)わずかに(ろく)()なれば、さのみ()(のう)のあるべきともおぼえざるに、この六字(ろくじ)名号(みょうごう)のうちには、無上(むじょう)(じん)(じん)功徳(くどく)利益(りやく)(こう)(だい)なること、さらにその(きわ)まりなきものなり。

御文章(ごぶんしょう)

 

【意訳】

南無阿弥陀仏の文字は、わずか六字ですから、それほどのはたらきがあるようには思えません。しかし、この六文字の中には、この上ない功徳や利益があるのです。その広大さは、とても人が計りきれるものではありません。

 

煩悩具足の凡夫である私達から見れば、南無阿弥陀仏は、短い言葉の羅列にしか見えないでしょう。

 

しかし仏から見れば、南無阿弥陀仏は、全ての人を等しく救い取ると誓った阿弥陀仏の広大な慈悲(=大悲の願船)そのものなのです。

 

お釈迦様は、自身の師匠であり、星の数ほどもいる仏方の先生である阿弥陀仏の慈悲が、あまりも広大であるために「とても人の言葉で、その全てを伝えきることはできない」と説いています。

 

しかし、そのような教え方では、大悲の願船が何なのか、煩悩具足の凡夫である私達には、さっぱり分かりません。

 

お釈迦様は、そのような私達の有り様をよくよく知り抜いていたために、誰にでも分かる形にして、大悲の願船が何なのかを教えてくれました。

 

それが、南無阿弥陀仏の六文字です。

 

このような短い言葉で、誰でも読むことができる念仏という形にすれば、煩悩具足の凡夫であっても、大悲の願船の姿を見ることができるのではないですか。その姿を見ることができれば、それに乗って救われるということの意味が、多少なりとも分かるのではないですか。

 

お釈迦様は、そう救いの手を差し伸べているのです。

 

お釈迦様が生涯で説いた教えを本にすると、その数は七千冊を超えます。それらは今日、経典と呼ばれ仏教の根幹を支えています。

 

その経典を全て読破し、完璧に理解しなければ救われない教えが仏教であるのなら、仏教によって救われる人は限りなくゼロに近いでしょう。

 

阿弥陀仏は、全ての人を等しく救い取ると誓った唯一無二の仏です。その弟子であるお釈迦様が、全ての経典を読破できる一部の天才だけを救う教えを説くでしょうか。

 

仏教とは本来、誰でも読むことができて、誰でも聞くことができて、誰でも理解できて、誰でも救われる教えでなければなりません。そうでなければ、全ての人を救うことなどできるはずがないのです。

 

南無阿弥陀仏とは、阿弥陀仏が悩みに悩み、考えに考え抜いた末に選び取った、煩悩具足の凡夫である私達を救うための最善の手立てです。


煩悩具足の凡夫を全て等しく救い取るためには、教えが多すぎても、難しすぎてもいけません。それでは、全ての人には伝わらないのです。

 

全ての人を等しく救い取るという阿弥陀仏の願いを完成させるためには、余計なものは極限まで排除し、最小限かつ十分な功徳を備えた救いの手立てが、どうしても必要でした。

 

だからこそ、阿弥陀仏は五劫という長い間、悩みに悩み、考えに考え抜いた末に、南無阿弥陀仏という救いの手立てを選び取ったのです。

 

その南無阿弥陀仏は、お釈迦様という「人として生きながら、仏と成った人」を通して、当時のインドの人々へと伝えられました。それは2,600年という時を経て、現代の日本にまで伝わっているのです。

 

それこそ、阿弥陀仏が選び取った救いの手立てが、間違いではなかったことの証ではないでしょうか。そこに、煩悩具足の凡夫である私達にはとても計ることのできない、広大な仏の知恵があるように思えてなりません。

 

全ての人を等しく救い取るという阿弥陀仏の願いのことを、本願(ほんがん)と言います。


この本願を完成させたことにより、阿弥陀仏という仏は誕生しました。

 

阿弥陀仏が完成させた本願は、全部で四十八個あります。

 

その中で最も大切な願いが、十八番目の願いです。そこには、阿弥陀仏の本心が誓われています。本願中の本願である第十八願とは、このようなものです。

 

【原文】

(せつ)()得仏(とくぶ) 十方(じっぽう)衆生(しゅじょう) 至心(ししん)信楽(しんぎょう) 欲生(よくしょう)我国(がこく) 乃至(ないし)(じゅう)(ねん) (にゃく)()生者(しょうじゃ) 不取(ふしゅ)正覚(しょうがく

仏説(ぶっせつ)無量(むりょう)寿(じゅ)(きょう)

 

【意訳】

わたし(阿弥陀仏)が仏に成る時、全ての人々が心から信じて、わたしの国である極楽浄土に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もしも生まれることができないようなら、わたしは決してさとりをひらきません。

 

ここで「わずか十回でも念仏して」と言われている念仏が、南無阿弥陀仏です。

 

阿弥陀仏は第十八願で、阿弥陀仏を心から信じて、阿弥陀仏の国に生まれたいと願い、南無阿弥陀仏と念仏する全ての人を、苦しみの一切無い極楽浄土へ必ず救うと約束しています。

 

極楽浄土へ救われるために必要なものは、阿弥陀仏を心から信じる、信心のみです。他には何にも要らないし、どんな条件も付けない。それが、阿弥陀仏の救いです。

 

南無の語源は、ナマスという言葉だと言われています。ナマスとは「お任せします」という意味です。つまり、南無阿弥陀仏は「阿弥陀仏に、そのまんまお任せします」という意思表示なのです。

 

何をお任せするのかと言えば、私達の命そのものです。

 

死ねば必ず極楽浄土へ救ってくれるという阿弥陀仏の約束を、そのまんま信じて、私達の命の行き先を、そのまんまお任せするのです。

 

生きている者にとって最も大切な命の行き先を、そのまんまお任せするには、心から信じていることが絶対条件です。

 

本当に大丈夫だろうか?

騙されているのではないだろうか?

 

そのように疑う心がある間は、恐ろしくて、とても命そのものをお任せすることなどできません。

 

全ての疑いが晴れ、信心が定まり、南無阿弥陀仏をそのまんま頂いた時こそ、煩悩具足の凡夫煩悩具足の凡夫のままで、大悲の願船に乗せて頂く時なのです。