戦後初の三冠王・名将『野 村 克 也』氏 逝く !! ①【物語編】 | “ Ackee ” の ブログ !! (b^-゜)
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今月、突然の大きな驚きと悲しみが日本列島を襲った。

プロ野球で戦後初の三冠王に輝いた名捕手で、

監督としても日本一に3度回輝いた野村克也さん が、

先般02月11日に虚血性心不全のため逝去された。

戦後の混乱から少しずつ光明が差し始めた時代。

プロ野球と言うひとつの大衆娯楽が、

世間に認められ始めようとしている時代に登場した、

名選手でもあった。
今回はプロ野球界にその名を刻し、

世代を問わずに親しまれた

野村克也氏の功績を偲び、

物語編風にその足跡を辿る事にする。

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『生い立ちからプロ入りまで』

野村克也氏は昭和10(1935)年に、

京都府竹野郡網野町(現 京丹後市)に生まれた。

実家は食料品店を営んでいたが生活は貧しく、

貧乏な生活から脱却したいとの思いから、

当時プロ野球の大スターであった赤バットの川上 哲治、

青バットの大下 弘への憧れや、

出身地にほど近い兵庫県出石郡出石町にて名を馳せていた、

大友 工投手(後に巨人等で活躍)の影響もあり、

次第に野球選手を志すようになったと言う。

中学2年生で野球部に入ると、すぐに4番・捕手に抜擢され、

3年生の時には奥丹後地方予選で優勝。

京都府大会でも四強に入り、青年団の補強選手にもなった。

中学卒業後は働くように母から言われるが、

兄が大学受験を断念する等の取り計らいにより、

京都府立峰山高等学校に進学した。

の後に内緒で野球部に入部したことが母にバレ、

退部するよう言われるが、

顧問の取り計らいにより続けさせて貰う事になった。

(幼少の頃の野村氏、生活が貧しかった故、

バットも買えなかった事から、海水に一升瓶を入れて、

持ち返り素振りの練習をしていたと言う。)


貧しくバットも買えないため、海水を一升瓶に入れて持ち帰り、

素振りを繰り返ししていたと言う。

野球部は地方大会で1回戦負けが常という弱小チームであり、

野村が在学中も2年生の時に、

京都府予選の2回戦まで進んだのが最高で、

甲子園などは夢のまた夢だった。

当時は廃部も検討されており、野村も全くの無名選手だった。

卒業後の進路は顧問がプロ球団の監督に、

手当たり次第に推薦状を送り、

南海監督・鶴岡一人(当時は山本姓)だけが返事をくれた。

実際に見に来た鶴岡監督の見守る中、

野村はランニングホームランを放った

(野村が高校時代、打った本塁打はこの一本のみ)。
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プロ入りからレギュラー定着、

大選手への道

昭和29(1954)年、南海に契約金ゼロのテスト生として入団。

野村は巨人の大ファンであったが、

当時巨人は藤尾 茂捕手が活躍していたため断念。

捕手層が薄く高齢化していた南海なら、

一軍のレギュラーに為り易いと考えた。
しかし肩が弱かったため秋季キャンプで、

一塁手へのコンバートを言い渡された。

当時の一塁手は球界を代表する飯田徳治が務めていたため、

このままではレギュラーに成れないと考えた野村は、

砂を詰めた一升瓶やテニスボール、握力計、

鉄アレイなどを使って筋力を鍛え、遠投で肩を強化した。

このような努力が実り、2年目は1軍出場や、

日本シリーズの出場こそなかったものの、

2軍で打率2位の成績を残し、

シーズンオフの秋季キャンプで捕手に再コンバートされた。

(あるファンから突然贈られた一冊の本との出会いが、

この先の野村自身の野球人生を大きく変える事に…。)


この時代、まっすぐ投げる事が出来ていないことを先輩に指摘され、

その原因がろくにボールの握り方も知らない事であったことから、

考える事の重要性を知ったという。

また、 「遠投は体全体で投げる事」 という先輩の言葉を、

「体全体を鍛えればいい」 と解釈し、

当時はまだタブー視されていたウエイトトレーニングを始めた。

こういう経験から、指導者となってから、

プレースタイルなどについて、

考えることの重要さを口を酸っぱくして説いている。

3年目の昭和31(1956)年、

ハワイでの春季キャンプで一軍に抜擢され、

以降正捕手に定着した。

ある時、現代でも正体不明の野村克也のファンが一冊の本を送った。

その時は取り立てて意識しなかったが(打撃は好調だった)、

野村の弱点はカーブ(変化球)に点で弱い事を知られてから、

かなりの打撃不振に陥た頃、

ファンの送ってくれたテッド・ウィリアムズの著書

「バッティングの科学」 に真剣に向き合いその中で、

「投手は球種によりモーション時にクセを見せる」 という一言があり、

これをきっかけに投手のクセを研究するようになり、

スランプを克服した。

因みにこの本は日本で出版されたのは昭和53(1978)年の事である。

その南海のファンでもなく阪神ファンである医師の謎のファンは、

原板をガリ版にして翻訳してコピーして当時の野村に渡した。

それ以来、打撃力が格段に向上したが、

どうしても稲尾和久だけは攻略できず、

野村は16ミリカメラで稲尾を撮影し研究した。

(南海ホークス時代に捕手でありながら、

スラッガーとして活躍していた野村氏。)


この事が後に野村本人が確立する、

『ID野球』 の基礎となった。

昭和32(1957)年に山内和弘(毎日)、中西太(西鉄)らの、

並み居るスラッガーを抑え本塁打王のタイトルを獲得。

以降毎年のようにタイトルを獲得し、杉浦忠、広瀬叔功、

皆川睦雄らと共に、南海の黄金時代に大きく貢献した。

南海は昭和34(1959)年、昭和36(1961)年、昭和39(1964)年、

昭和40(1965)年、昭和41(1966)年にリーグ優勝、

そのうち昭和34(1959)年と昭和39(1964)年は、

二度の日本一に成っている。

昭和37(1962)年に、別当薫(毎日)の持っていた、

パ・リーグ記録のシーズン43本塁打(1950年)を抜く44本を記録。

昭和38(1963)年には小鶴 誠(松竹ロビンス)の、

プロ野球記録シーズン51本塁打(同上)を破る52本を残した。

52本塁打は翌年に巨人の王貞治が55本を打った事により、

プロ野球記録としては更新されたが、

パ・リーグ記録としては平成13(2001)年にタフィ・ローズが、

55本を打って更新するまで長く残っており、

捕手として50本以上打った選手は、

メジャーリーグを含めても野村だけである。

さらに同年は盗塁阻止率でもキャリアハイの.524を記録するなど、

パ・リーグを代表する強肩強打の捕手として名を馳せた。

その後、8年連続本塁打王、昭和40(1965)年には、

戦後初の 『三冠王』 に輝いた。

(長嶋茂雄選手<当時>と試合前に談笑する野村氏。)


昭和52(1977)年には規定打席到達者の中では最低打率であったが、

これによって野村は最高打率(首位打者)と、

最低打率の両方を経験した初めての打者となった。

しかし、当時の日本のプロ野球を取り巻く世情は、

人気面・知名度いずれも巨人を中心としたセ・リーグ偏重傾向が、

現在より圧倒的に高かったため、

同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や、

王貞治に比べて世間からの注目は少なく、

今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。

昭和50(1975)年05月22日に野村が史上2人目の、

600号本塁打を達成(後楽園球場)した時の観客は、

僅か7,000人ほどであった。

野村はこの試合後のインタビューで、

「自分をこれまで支えてきたのは、

王や長嶋がいてくれたからだと思う。

彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、

こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。

悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、

人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」 と答え、

それ以後 「月見草」 が野村の代名詞となったと言う。

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JG7MER / Ackee