先日、7日土曜に大阪・北浜のお洒落な中華レストランPeggy Sueで『トシ新町&ツインズ ライブ』が行われた。トシ新町といってもご存じない方もおられるが、日本のブルース黎明期から活躍されている名アーティストだ。トシ新町と名乗る前は新町利明と名乗っておられたが、アメリカから帰国後、改名した由。

この人の凄さは、レパートリーにJames CarrのThe Dark End of the Streetが入っていることからも伺いしれる。正直、そんじょそこらの人間が唄えない、この曲をカバーできる日本人がいるとは…。しかも完全に自分のモノにしている。以下は、その本家本元のヴァージョン。





さて、James Carrという人物は、日本のサザンソウル好きにとってはたまらない名前である。おそらく最も評価しているのは日本人ではなかろうか。様々なウェブサイトやブログ等で彼の素晴らしさを紹介しているので、あえて繰り返さない。

しかしながら、個人的には、心に響く音楽や芸術に触れると、その作品のみならず、その人となりや人生まで知りたくなってしまうため、オタクといわれる男子全般と違い、人名やタイトルなどはあまり正確に覚えてないが、エピソードだけはやたらと頭に入っている。名曲の陰の隠れたエピソードを知ることにより、さらに味わいが深まると信じるゆえだろうか。


サザンソウル界には才能がありながら不遇の人生を歩んだ者や、また、成功したにもかかわらず、自ら破滅の道を驀進した者も数知れない。名曲とともにシンガーたちの真の姿に眼がいってしまうのは、私だけではあるまい。このカーも不遇な人生を歩んだ者の一人である。だからこそ愛さずにいられない。

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James Carr(1942~2001)生粋のメンフィスっ子である。カーのファンが多い日本でも、彼が一度も学校教育を受けることなく育ち、文盲だったことはあまり知られていない。10代で既に結婚し、何人も子どもがいた彼は、日雇い労働者として家族を養っていた。

しかしながら、教会のゴスペルチームに多数所属し、その才能を開花させていたという。意外にも、父親が牧師で、9歳から教会でリードシンガーを取るほどの力量を持っていたにもかかわらず、彼は文盲だったことが不思議でならない。彼さえ望めばできたはずなのに…。満足に読み書きができないことで、多大な不利益を蒙ったことは想像できる。だが、この人物を調べていくうちにわかったことがあった。


カーと生涯の関係を築くルーズベルト・ジャミソン(カーのマネージャー、ソングライター、作家など)が彼と出会ったのは、カーがまだ日雇い労働者として働いている1962年、カーがまだ20歳の頃だ。その時の印象は「まるで子どもじみた幼稚な男だった」という。というのもルーズベルトは当時カーが所属していたゴスペルグループのハーモニー・エコーズのマネージャーをしていたからだ。


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その後、ルーズベルトはカーの才能にほれ込み、一度はスタックスのドアを叩くが、断られ、1964年にサザンソウルの一翼を担ったGoldwaxにカーを紹介した。ゴールドワックスのオーナーはクィントン・クランチである。その時このレーベルにはO.V.Wrightもいた。OVの"That's How Strong My Love Is"は、ルーズベルトの曲である。同年、発売されたカーの最初のシングル曲は、”The Word Is Out (You Don’t Want Me)で、同時にOVの"That's…"も発売された。2曲ともルーズベルト・ジャミソンの曲である。カーが22歳の時のことだ。

カーの歌声はふくよかで、温かみがあり、同時に爆発的な威力も持つ素晴らしいものだった。ルーズベルトが同様に発掘したOVライトもジェームス・カーも比類なき才能を持った逸材だったが、あのOVでさえカーの声を羨んだという逸話も残っているほどだ。

しかし、同じレーベルのライバルだったカーとOVとの関係は、いささか険悪になっていく。というのも、OVがカーとロードに出るのを嫌がったためだ。おそらく自分がカーに食われるのを敬遠したのだろう。自分の野心に積極的だったOVと全くその気がなかったカーとの違いがその後の運命を左右する


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カーの絶頂は、2年後の1966年に訪れる。念願のトップ10入りを果たし、中ヒットを連発し、ゴールドワックスの稼ぎ頭に踊り出た。彼の前途は洋洋に見えた。それが3枚目のシングル"You’ve Got My Mind Messed Up”である。

1966年春に発売されたこの曲は、オーティス・レディング風のバラードで、O・B・McClintonの作曲だった。当時学生だったマックリントンは、その後、ジョージ・ジャクソンを含めたゴールドワックス指折りのソングライターになった。またサウンドは、文字通りスタックスのホーンセクションを使ったスタックスサウンドである。しかし、それをリードしたのは、間違いなくカーのボーカルだった。サウンドとボーカルが絶妙にマッチした最高例のひとつである。

続いて、同年の半年後1966年の終りに発売されるのがカーの代表曲と言われる"Dark End of the Street"だが、ダン・ペンとチップス・モーマンの作の名曲である。アレサ・フランクリンを初めとして、クラレンス・カーター、リンダ・ロンシュタットなどがカバーしているが、カーを超えるものはないと信じている。


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カーの代表曲を収めた初LP You Got My Mind Messed Upが同年1966年に発売され、他にLove Attack,Pouring Waterなどのヒットシングルが収録されている。このアルバムは、サザンソウル名盤に入る1枚である。

しかし、このアルバムジャケットを見ていただきたい。クローズアップされた伏し目がちのカーの顔がオレンジ色に塗られている。泣いているのか、哀しいのか、その表情から心の底はうかがい知れない。しかし、このジャケット写真は、ゴールドワックスの苦境とカーの苦悩を示すものだった。おそらく、このことをすぐ理解したのは、ゴールドワックス関係者だけだったろう。

絶頂を極めた1966年の春から冬のたった半年の間に、カーを取り巻く環境が大きく変化した。カーのマネージャーだったルーズベルトは、専属ではなく、本業は血液銀行に勤務するサラリーマンだった。もし、彼にカーと運命を共にする覚悟があれば、カーのその後も変わったかもしれないが、ルーズベルトにはまだそんな覚悟を決めきれない事情があった。OV Wrightに書いた"That's How Strong My Is"の印税でもめ、ゴールドワックスと絶縁状態になっていたからだ。自分が路頭に迷うかもしれない状況では、なんの保証もないカーの専属マネージャーにはなれなかった。

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後年、自著でカーを追い詰めたのは自分だとはっきり書いている。彼とてカーの声を利用してソウル界に躍り出ようという野心がなかったとはいえない。一人では生きていけなかったカーと彼を利用したいルーズベルト、チームを組んだのは野心からだったが、カーという人間を本当に理解していたのはルーズベルトだけだったろう。

しかし、忙しくなる一方のカーに対して、ルーズベルトは本業を辞めなかった。ロードやツアーに同行しなかったことで、カーは絶望した。そして、当時、カーの実力に目をつけていたベルの社長ラリー・ウッタルとオーティス・レディングのマネージャーだったフィル・ウォルデンとのマネージャー契約にサインしてしまう。写真はフィル・ウォルデン


カーには、なぜルーズベルトが自分と一緒にロードに出てくれないのかか理解できなかった。夜中にルーズベルトの家にやってきて、「明日は、ロードに出る日だよ。一緒に行こうよ。」と誘いに来たときもあったという。

信頼しきっていたルーズベルトが自分から離れることで、カーは精神のバランスを失ってしまう。おそらく、カーが文盲だったのは、今で言う学習障害だったのだろう。今でこそ一般にも理解されてきたが、当時はこれが障害とは認められなかった。日常生活は、なんの問題もなく生活できたので、カーのこういった症状は、当時はドラックの影響ではないかと思われていたのだ。

カーの障害は、眼からの情報を脳に伝達するシステムに支障があったか、脳が知覚できる情報に変換するシステムに支障があったかのどちらかで、おそらくは先天的なものだったに違いない。だからこそ、家庭が貧しいわけでもないのに、文字書きが一切できなかったのはこのためだ。父親は唯一彼ができる歌をやらせた。彼にとって文字は、ただの模様にしか見えず、意味をもつものとは理解されなかった。人間は学習によって、模様をある一定の意味を持った『文字』として理解するのだが、カーにはそれができなかったのだ。したがって、書くこともできないのは当然だろう。

その代わり、耳からの情報は常人が感じる以上に鋭敏に感じ取っていた。集中して何かをやることができない彼が唯一できたことが音楽である。そんな彼が精神的支柱であるルーズベルトを失ったことで一挙に転落していくのは自明のことだった。

ウォルドンと契約したものの、ツアーに出ることもままならず、なによりセッションすらできない状態になった。1曲のレコーディングに何時間もかかるという状態で出された初LPのアルバムジャケットは、そんなカーとゴールドワックスの苦境を表すものだったのだ。もちろん、カーの2枚目のLP A Man Needs A Woamnもこんな最悪の状態で録音されたものだ。カーの2枚のアルバムは、彼が生きた証である。全身全霊をこめたたった2枚のアルバム、こういったことを踏まえて聴くと感慨もひとしお深くなる。


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では、セッションは一体どんな状態だったのだろうか?マッスル・ショアーから飛んできたダン・ペンとチップス・モーマンも途方にくれていた。歌詞も楽譜も読めないカーにどうやって歌わせるかを悩んでいたのだ。写真はダン・ペン

すると、側にいたルーズベルトがこう言った。
「簡単なことさ。ダンに歌ってもらえばいいのさ。」
実際、すぐにカーは覚えて歌いだした。

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そう、歌は全て誰かが歌って、歌詞を覚えさせていたのだ。さらに、ゴールドワックスのクィントンの手法も面白かった。彼はダメだしは一切しなかった。その代わり、ポケットに小銭を入れて、それをジャラジャラ鳴らすだけなのだ。NGの時は小銭を鳴らさず、黙って、側に行く。これだけで、それをされた人間は二度と同じヘマはしなかったという。カーの場合は好きなように歌わせた。これが成功の秘訣だったという。写真はチップス・モーマン


とはいえ、セッションは困難を極めた。こんな状態のカーからちゃんとしたパフォーマンスを引き出すのはもっと難しかった。たった1曲に6時間もかかることもよくあったという。カーは椅子にただじっと座っているだけで、一言も発しなかった。しかし、それから3時間後突然何の躊躇もなく一気に唄いきりセッションは終わった。全く驚きの連続だ。写真はチップス・モーマン

1969年、ゴールドワックスでの最後のカーのセッションは、何時間もぼんやり座り込んだ末に、ビージーズの"To Love Somebody"だけを歌って終わり、そして、ゴールドワックスそのものも終焉を迎えた。ゴールドワックスはジェームス・カーとともに存在したレーベルともいえる。誰もがカーのことを考え、なんとか彼の歌を記録しようと最善を尽くしたことがうかがい知れる。実は当時、昨年未発表アルバムがケントから出たスペンサー・ウィギンスも在籍していたが、全く省みられることなく、このレーベルを去っている。それほど皆カーにつきっきりだったのだ。彼は本当に皆から愛された人だったに違いない。子どものような全く邪気のないカー。ほおっておけない魅力がたくさんあったのだろう。


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ゴールドワックス無き後のカーは、キャピタルのオファーを蹴って、アトランタと契約を結ぶが、依然として精神状態に改善は認められず、1971年にたった一枚のシングル盤を発売して、契約を終了した。そして、その後、所属した弱小レーベル、リバー・シティは、元マネージャーのルーズベルトが設立したものだった。これで落ち着きを取り戻したかに見えたカーは、1977年に復帰シングルを出した。

サザンソウルファンの日本人にとってたまらない年といえば、1979年ではないだろうか?この年は驚くほどの偉大なアーティストたちが来日公演を果たしている。ソウルではないが、レゲエの神様、ボブ・マーリーが4月に日本の土を踏み、9月には、サザンソウルファンが涙したO V Wrightの最初で最後の来日記念公演が行われ、そして、ジェームス・カーも来日することになった。

しかし、1979年の日本公演は、惨憺たる有様だった。もちろん、側には信頼できるルーズベルトがつきっきりで面倒を見ていたが、異なる環境での公演は、彼には非常に辛いものだったに違いない。結局、ステージに上がるのに、通常の倍の抗鬱剤を服用する破目になり、薬の副作用で意識が朦朧とするなかライブ公演を行った。実際に公演を観た方々に感想を聞いてみたい。ヘロヘロでひどかったといわれるが、こういった状態だと知っていれば、逆によく歌ったものだと思う。ドタキャンしてもおかしくないのに、待っている日本のファンに申し訳ないという気持ちが彼にあったのだと思う。

80年代から90年代にかけての10年間は最もひどい精神状態だったという。Sweet Soul Musicの著者であるピーター・ギュラルニック氏がルーズベルトと共にカーの自宅を訪ねた様子が本に詳しく出ている。カーは当時姉とサウス・メンフィスのプロジェクトで暮らしていた。


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そこには、『むくんだ、幽霊のような目をした焦点の定まらない男がいた。頭はぼさぼさで、その顔は皆がよく知っているレコードジャケットのように何も見ていなかった。』
カーは、1966年春にアポロ劇場に出演した頃が絶頂だったのだろうか。

そういった時期を過ぎ、90年代に入ると、かなり落ち着きを見せ、1991年に復活ゴールドワックスというレコードTake Me To the Limitを出すまでになった。ルーズベルトと元オーナーのクィントン・クランチの発案だった。これを機に1994年には、全米はおろかヨーロッパにもツアーができるまでに回復した。この時もルーズベルトが側にいた。しかしながら、往年の輝きは既に失われていた。


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同時に、新たにできたソウルトラックス・レーベルからアルバムSoul Surviverまで出すことができた。誰もがカーの復活を期待し、彼もそれに応えるように見受けられる。しかし、当時まだ52歳だというのに、言い知れぬ苦労が刻み込まれている。随分長い旅路の果てだったのだろう。

しかし、復活を期待したのも束の間、カーに別の病魔が忍び寄っていた。肺癌が見つかったのだ。数年もの間、病魔と闘うも、再復帰できるまでには至らず、2001年1月7日 メンフィスの療養所でこの世を去った。

1966年の半年で天国と地獄を味わい、生きる希望すら失った、その後の人生。そして、再復帰に賭けるのも束の間、残された生命はほんの僅かだった。彼が生きた証はただひとつ『歌う』ことだけだったのだろう。歌だけにその身を捧げたジェームス・カーという人物を忘れたくはない。サザンソウルだけでなく、あらゆる音楽の中でも屈指の存在であることは間違いない。


参考文献:Sweet Soul Music written by Peter Guralnick
     James's success written by Roosevelt Jamison 
     Wikipedia