※5月5日『へうげもの』第5回のオープニングどうなるかと思ったら、やっぱり差し替えられていた。Cro-magnonのメンバーが覚せい剤で逮捕された為に吉幾三のボウルマンも幻と化した。合掌


                               『超絶技巧』 

            支えたのは、国家の威信と職人の意地だった。

                        

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                         群鶏図香炉(ぐんけいずこうろ)  

                    作 正阿弥勝義(しょうあみかつよし)


昨年、東京で開催された『超絶技巧展』が現在(2011年4月13日~5月29日)大阪歴史博物館で開催中だ!さぞかし好評だろうと思いきや黄金週間というのに、それほどの人手でもなかった。しかし、その分、かなりゆったり鑑賞できたので本当に楽しかった。


超絶技巧と聞くと、大抵は音楽か、象嵌、蒔絵等の美術工芸が思い浮かぶが、今回はその中でも現在では極めて珍しい『金属工芸』だ。まずは、上の写真をご覧になっていただきたい。


この作品は、超絶技巧展の広告にもなっている正阿弥勝義(しょうあみかつよし)の代表作とされる作品だ。写真ではその大きさがわからないが、だいたい大きめのミカンといったところだ。しかし、その微細かつ精巧な技は筆舌にしがたい。このミカン大の中にあらゆる技巧が詰まっている。


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また、左の鯉鮟鱇対花瓶の鯉は蓮の葉?とおぼしき水草から鯉が飛び出し、その口に花を活けるという斬新さ。どんな花を活けろというのか?これをさらに超えたのが、もう一対の悶絶鮟鱇花瓶だ。鮟鱇と名づけながら、その姿は古代魚のシーラカンスである。



金工の技法
には

①鋳金=金属を溶かして加工

②鍛金=金属を叩いて加工

③彫金=鏨(たがね)と呼ばれる金槌で叩く、彫る、異なる金属をはめ込む

があり、その中でも彫金には以下のような技法がある。


彫金には

①蹴り彫り=線で文様の輪郭を表現する

(刻線=三角形の鏨跡を繋げることで強弱を表現する)

②片切り彫り=日本独自の技法 左右の切れ込みの角度と深さで陰影をつける

まるで筆でなぞったような表現ができる

③魚々子(ななこ)=背景の地模様にすぎないが、非常に繊細かつ集中力が必要な根気のいる表現法 丸の鏨で一粒一粒打ち込み、まるで魚卵のように見えるためこの名が付いた。

④なめくり=なめくり鏨という先端が丸まった鏨で打ち込む技法(何ゆえ『なめくりというのかは不明)

彫金の中の象嵌技法にも以下のような種類がある。


象嵌技術には

①布目象嵌=布目のように金属をはめこむ技法

②平象嵌=地の金属と同じ高さで加工

③高肉象嵌=文様を盛り上げて制作する 豪華に見せる技法

最も高度で豪華に見える。


こういった技法を駆使し、超絶技巧が生まれたわけだが、正阿弥勝義をはじめとした明治の名工たちの作品を見た後では、現代の名工たちのそれは稚技にも等しくみえる。まさに明治の技は神業というところか。特に正阿弥勝義は最も難易度が高い技術を使い、決して妥協することがなかった名工である。


しかしながら、超絶技巧展を鑑賞して気になったことが幾つかある。

①なぜ、これほどの技術者が存在しえたのか

②なぜ、幕末から明治にかけての特定の時期だけに集中しているのか

③なぜ、超絶作品とその作者たちが日本では無名に等しいのか



紅花紅のブログ-shoami1 キーワードは『黒船』。


江戸時代は世界的に見ても稀有な時代である。というのも約300年間という長い間戦争らしい戦争がなかったということだ。江戸前期はともかく中期から後期になると、武士は帯刀しえど、一度も抜かずに生涯を終える者も少なくなく、刀はしだいに高価なアクセサリーと化していった。(刀というものは装飾する部分がかなり多かった)


また、帯刀を許されなかった商人たちは煙草入れ、印籠、帯止めなど豪奢なアクセサリーを楽しんだ時代だった。そのため、金工の需要は高く、安定した職業だったのである。ところが、その安定した職業が黒船来航とともに運命が変化する。


名工として名を馳せた正阿弥勝義は、天保3年(1832)に、岡山の津山で彫金師中川勝継の三男として生まれ、明治41年(1908)に京都でその生涯を閉じる76年間を金工として生きた人物である。上は晩年の写真。


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彫金師の家系に生まれた勝義の将来はもちろん彫金師である。実兄の中川一匠が徳川幕府に仕えていた後藤家の門下だった関係から一時幕府にも仕えていたという。中川姓の勝義は、18歳のときに岡山の名彫金家である正阿弥家に養子に入る。正阿弥勝義作 蓮葉に蛙皿


正阿弥家九代目になってからは、岡山藩に召抱えられ、勝義は刀剣等の制作にあたるが、嘉永6年(1853)に黒船が来航からしだいに運命が変わることになるとは彼自身も思わなかったろう。


勝義35歳の頃に、明治維新が起こり、その後、廃藩置県(明治4年1871年)により岡山藩との独占契約が解消されるにいたる。仕事はめっきり減り、極めつけは、廃刀令(明治9年1876年)である。それにより刀装具などの今までの注文がすっかりなくなるという憂き目に合う。これを機に金工をやめる技術者も多数いた。以上のことから幕末から明治にかけて金工の優れた技術者がたくさんいたことがわかっていただけたと思う。


舞台は万博
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その後なんとか生き残りを賭けた勝義は、美術工芸品の輸出に眼をつける。時の明治政府も富国強兵政策を取っていたため、外貨を稼ぐ必要に迫られた。そこで思いついたのが万国博覧会への参加である。


日本の参加は慶応3年(1867年)薩摩藩と佐賀藩が幕府とは別に出品した第2回パリ万博が最初で、この時人気を博したのが薩摩焼だが、反省する点も多かった。満を持して、明治政府として初参加したのが明治6年(1873年)のウィーン万博である。多数の日本の工芸品を出品したこの万博で、ヨーロッパにジャポニズムブームが巻き起こり、明治政府の目論見は見事に当たった。


出品の選定には日本人ではなく、シーボルトに推薦されたドイツ人のワグネルがあたり、精緻でエキゾチックな美術工芸品を中心に展示することを勧めた。これが好評を博し、万博の日本パビリオンそのものが貿易の拠点となった。翌年の明治7年(1874年)、半国営の貿易会社『起立工商会社』が設立された。この会社や民間の貿易会社を通じて、日本の優れた美術工芸品が海外に輸出され、勝義の作品も海外に渡る。


半官半民の起立工商会社で扱う作品は、当時の宮内省が認定した帝室技芸員(現在でいう人間国宝)が担当したため、他の貿易会社が扱う品とは異なり、例外なく超一流のものばかりだったことを特筆したい。


つまり、万博を舞台にした美術工芸品の出品は、日本の威信を賭けたものであり、職人にとっては持てる技巧を余すことなく見せ付ける晴れ舞台だったのだ。従って、日本人から見れば、過剰にも思える装飾が多かったり、驚愕させるのを目的にした作品が多いのもそのためである。

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勝義の鯉鮟鱇対花瓶などその最たるもので禍々しさもひとしおだ。勝義の『どや顔』が眼に浮かぶ。幕末から明治にかけて超絶技巧が異常に多いのは、輸出の花形だったからである。


勝義、世界へ


さて、勝義最初の輸出品は、勝義46歳の頃の明治11年(1878年)神戸の貿易商の依頼により作り上げた衝立という。ボストン美術館が所蔵しているらしいが、現物の画像は見当たらなかった。


その後、理解のある裕福な支援者(=パトロン)を得た勝義は、刀装具で培った技術を用いた、斬新な作品をひっさげて、独自にパリ万博やシカゴ万博等に出品し、高い評価を得る。


超絶技巧展で展示されている作品は、制作年月日は不明だが、46歳以降のものが多いと思われる。気力実力共に充実した頃だろう。勝義は国内外の博覧会に多数出品し、受賞数は30回を超え、宮内省買い上げも13回もあった。


好みの変化


ウィーン万博後、フィラデルフィア万博(1876年明治9年)、第3回パリ万博(1878年明治11年)、第4回パリ万博(1889年明治22年)、シカゴ万博(1893年明治26年)まで日本の美術工芸は順調な売り上げを見せるが、第5回パリ万博(1900年明治33年)で装飾過剰と酷評される。パリの好みがシンプルなものに変化していたからだ。ちなみに国内の博覧会は第5回まで行われた。


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このため政府自らが『図案』という雑誌を刊行し、デザイン性を重視せよと職人たちに通告するほどだった。パリの好みが日本のアートにも影響を与えたことは大きい。これを機に過剰を極めた宮川香山が代表する陶芸の高浮き彫りや、彫金の高肉象嵌などはしだいに人気が衰え、シンプルなものに変わっていく。


この変化は勝義の作品にも見られる。既に写真を掲げた蓮葉に蛙皿や左上の柘榴に蝉蓋付飾器などは、日本古来の美を伝える名品である。古来日本人はうつろいゆく自然を愛で、その一瞬の姿をとどめようと努力してきた。ある者は絵に、ある者は陶器に、ある者は蒔絵に、ある者は工芸品に。


勝義もまたそのうつろいゆく、はかない、生きとし生けるもの全てに美を感じたのだろう。それは終りのない追求である。どれほど巧みであろうと、本物の美しさにはかなわないこともわかっていた。しかし、作らざるを得ないどうしようもない衝動があった。仕事場だけが仕事ではなかったろう。散歩していても飛ぶ鳥にヒントを得、庭の虫たちに言い知れぬ神秘を感じ、全てを再現したいと思ったことだろう。展示作品にその思いがあふれている。真摯な勝義のまなざしが優しい。


限られた時代の限られた美


明治という時代がはぐくんだ独自の美は、江戸の技術と海外から得た異なる美との見事なコラボレーションにより生まれた、この時代ならではの美である。これに尽力したのが帝室技芸員制度である。金工界の帝室技芸員には、加納夏雄と海野勝珉がいる。民間では、今回メインの正阿弥勝義、塚田秀鏡、香川勝広らが世界に類を見ない日本の彫金芸術を広めた。


忘れられた超絶技巧


しかし、輸出を主とした為、日本に残らず、また、残ったとしても愛好家が手放すことはなかった。結果、日本人が知らない有名アーティストとなり、超絶技巧も『古い』『過剰』などと言われ、時代の趨勢と共に廃れていった。また、職人たちがマニュアルに残すことなく口伝だったことも技法が伝わらなかった要因のひとつではなかろうか。さらに、明治以降、学校教育も欧米化され、欧米礼賛に近い考えが流布し、日本古来のものを下に見る、『日本人は日本人を評価しない』時代に入っていく。日本で無名の埋もれた巨人はまだまだいるはずだ。


勝義は、美術工芸の世界で活躍した後、居を岡山から京都に移し、晩年は、美術研究にいそしんだ。そして、脳卒中で倒れ、明治41年(1908年)にこの世を去る。しかし、その誉れは21世紀を迎えるまで封印されるのである。


さて、この展覧会を開催する上での最大の功労者は、京都清水三年坂美術館である。開館は10年以上前になるが、このオーナー兼館長は、村田製作所の御曹司村田理如氏である。氏の努力がなければ、海外に四散した日本の逸品を眼にすることはなかったろう。氏は美術館の運営の他に、美術研究書や講演も勢力的に行っている。京都に出かける機会があれば、是非お寄りください。


5月23日(月)BSプレミア『美の饗宴』でこの超絶技法が特集されますので、お見逃しなく。番組は昆虫ものに焦点を当てるようです。


参考文献 『日本の彫金-その歴史と伝承技術-』(船越春秀) 『正阿弥勝義の世界』(臼井洋輔) 『世界の博覧会』