しるくらし。 -2ページ目

しるくらし。

学校へ行かない選択。
子どもとの関わりなど。

発達や生きづらさの話しなど。

不登校の親の会を開いています。

対話、安心できる温かい場にしていきたいです。

未子、体調不良で寝込んでます。ふだんほとんど風邪ひいたりしなくて元気なんですが、こうして体調崩すとほんとしんどそうにしてます。

父親ってこういいうときはなかなか居どころがない、というか、子どもは母親を呼ぶんだなぁ、と面白く観察してます。

そんなわけで父親には間接的に関わってもらうわけですが。(なんか買ってきてもらったりですね、吐きそうってなってゲロ袋をキッチンから急いで持ってきてもらったりですね←昨日の話)

わたし自身もここ数日の予定の変更を余儀なくされました。
こういうのも最近はあまりなかったから、これはこれで少し懐かしい感じもあります。

子どもたちが小さかった頃は、熱出たとか中耳炎で、とかで保育園行けないってなると、仕事休んだりその都度モヤモヤしてたんですが。
大きくなるとそういうのもなくなるので。

なので、これをきっかけにわたしも溜まってた読みたかった本読んだり、DVD観たりしてすごしてます。
昨日は数年から全巻買って置いてた“逃げるは恥だが役にたつ”っていうコミックを一気読みしました。

あの作品、わたしてっきり恋愛のストースーだと思っていたんですが、ところがどっっこい、そういうわけでもなく。

仕事に関することやコミュニケーション、パートナーシップに関することなど、人間関係に関するヒントがいっぱいあるではないですか。

何でもっと早く読まなかったんだ〜、って感じなんですが、いやきっと全てはベストなタイミングなんでしょうね。

わたし今、夫との関係性を見直し中で、というのも、夫婦20年続けてきてそりゃあ20年といえば大変な変化があるんですよね。

2人で生活するところから始まり、子どもが産まれ2人3人4人と増え、わたしはいつの間にか子育てに没頭して(だってやったことないことばっかり、初めて尽くしですから)
その間も夫は変わらず外で働いて、これを何年もやって。
(とは言え、夫は夫で私には分からない知らない変化があったと思うのですが…余裕がないとそんなこと想像もできませぬ)

気づいたら子どもたちは大きくなってて、もうそんなに私たち親としてはやることがなくなってて、
ほとんど戸惑うのは母親の方が大きいと思うんですが。

だってあまりにも自分を見てなかったので、「あれ?これからどうしましょ」という感じでもあるんですが。

子育て没入期の夫との関係性ももちろん変わってきていて、そしたらそこの関係ももちろんのこと、
これからどうしましょ
共に生きてくのか、ちょっと違う方向性になるのかいろんな可能性を含めてですね、
ちょっともう一度話し合って再構築士しましょうか、となって当然のような気もしています。

対話の場(オープンダイアローグのような)で定期的にセラピーをしているんですが、まぁ自分でもびっくりするくらいわたしの中で恨みつらみが溜まっていたんですよね。笑

その都度出してこなかったので、たまってたまって発酵していたというわけです。

夫にしたらたまったもんじゃないですねよぇ、なんで都度言ってくれなかったんだよーという感じだろうと思うんですが。

まぁこれはね、本当に自分でも驚きなんですが当時は自分のこと何も気が付いてなかったんですよね。

それだけ一生懸命だったってのもあると思いますが、なんだかねぇやって当たり前、とかそういうのとも少し違うような気もするんです。

きっとそれはそれで承認欲求というか何かが満たされてたんだと思います。

セラピーは約一年続けてますがわたしにとっては有効だと思ってます。そうじゃないとつづかないですが。
まさに関係の再構築中です。

わたしはいいタイミングでこういうことができてよかったと思ってます。
子どもがいるとその子たちの成長に伴い、関係性や役割が変わってくるのが当然で。

それを自然に上手いこと移行できる夫婦もいればやっぱりそうじゃない夫婦もいて。

私たちはすこぶる下手くそだった。笑
わたしは自分たちではもうにもできない〜、
お手上げってなって、信頼できる方に依頼しました。

逃げ恥からパートナーシップ、コミュニケーションについて書こうと思ってたら、思いがけず夫婦の暴露話しになってしまいましたが…
子どもの体調不良も時にはいいもんです。

普段出たがりのわたしは(じっとしていられないとも言う。かなりの重症😆)こういうことがないとうちでじっくり何かをするということがないので、まぁ末っ子くんに感謝でもありますね。

おかげで積読なんかが読めて達成感もあったり、こういう振り返りができたり。

あとついでに…この20年の子育て期間んのおかげで、少しは臨機応変力が育った気もしてます。思いどおりにいかんこと多くてそれはそれで“じゃあどうしよ”って都度考えてくふうしてきたよな、と。

振り返ってこんな風に想いも書き留めておけたし。

場を開いて待つということ、

というタイトルにひかれてお話会に行ってきた。


奈良県東吉野村という村?山?の中で

私設図書館をやっている青木ご夫妻が来るということ。


私の最近は、

親の会をやったり、

本の会をやったり、

自分研究やったり、

やってみたいなって思うこと

実験のようにやってみている。


日時を決める、場を借りる、その場へ行く、人が来るのを待つ。
予約はどれも必要としてないので、
それをやりながら
待つってどういうことなんかな?っておもって日々過ごしている。


実は青木ご夫妻のことはほとんど知らなかった。

著書も読んだことなかったし。

けど会場となったこれまた分かりにくいとこにあって、

なおかつ月に数回だけ開くっていう、「まちのお茶の間」で、青木ご夫妻とその東吉野村にある私設図書館のことを知ったんだった。


なんだかみんなが

あそこへ行ってきたことを自慢のように、

なんだか誇らしげに話している。


へーー、そんなとこがあるんだ、

なんだか秘密の場所みたいで

で、そこに行ってきた自分すごいでしょ、みたいな感じで、流行ってんのかなーとか思っていた。


でだ、

その東吉野村からそこのご夫妻がお話にやってくるという、しかもタイトルがものすごく興味深いではないか。


ということで”ぜひ話聞いてみたい”と思い、

行ってきた。



で、行ってよかった。

うん、青木ご夫妻の話が聞けて、空気感に触れられてめっちゃよかった。

というか勝手にシンパシーを感じてしまった。


青木さんたちは

私を、人々を、

何者でもなく“ただの人”でいさせてくれるのだ。


「資本主義を半分捨てる」という本が最新で、まだ読んでいないのだけど、そこのマインドというか、

経ったの2時間じゃ全然足りないのだけど。


それでも私は青木さんが何を大切にしているのか、

何を言おうと、何を実践しようとしているのか感じられた気がしている。

在り方、なんだよね。


だから、私たちは別に青木さんにならなくてもいいのだ。

青木さんたちもそんなことは微塵も思っていない。


何が自分にとって軸になるのか、どうやったらバランスを取っていけるのか、それを各々考えたり実践したり、試行錯誤してやってこうね、ってことなんじゃないかと。


その考え方のヒントに、青木さんの生き方はあるんじゃないだろうか。

実践してる人はそこまでにやっぱりたくさんの葛藤や困難や迷いやいろんなことがある(あった)と思うんです。

けど周りのものには見えるとこしか見えない、みたいなことがあって。


で、見えるとこだけではその人のことは分からないんですよね。

そこの過程にこそ、その人があるんだと思う。

という意味で、たったの2時間で時間が全く足りなかったのですが、その過程を少しは見せていただきた気がしている。

お話しお聞きしたのは、本当に米粒一つくらいだと思うんですよね、今までの道のりの過程の。

たった2時間ですから。


今回は会場となった「まちのお茶の間」のご夫妻と対話形式だったのですが、両者の対話ももちろんのこと、聞きにきている私たちの声もなるべく聞いてくださるような形だった。

20人近くいて、後半は質疑応答、感想という形で一人一人の声を聞く時間を持って下さいました。

感謝


質疑応答はやはり面白くて、

あぁ、どのように答えるのかなぁ、と興味深く聞いていました。


合気道のワークショップもやってるとのこと(インスタで見て知った)

年内にはまた名古屋市内でイベントがあるとのこと。


まずは本を購入したので、さらに青木さんの脳内がどうなってるのか知りたいと思ってる。

・

・


今は私は街に住んでる。

数年前は郊外(田舎の方)に住んでいた。

山が見えて、道が空いてて、川やキャンプ場や自然が近くて、まぁのんびりしていた。

けれど、私たち家族は街に引っ越すことを決めた。


悩んで決めたこと。

どっちにもいいところがあれば諦めないといけないことがあった。

それら全て考えて街に住むことに決めた。

諦めるものは諦めた(捨てたと言ってもいいかもしれない)

その代わりに手に入ったものもある。


どっちがいいかなんて言いようがないし、究極どっちでもいいんだと思う。

その悩んだ過程にこそ大切なものがたくさん含まれている。

その中で捨てたものを拾い直すこともできるし、捨てた(と思ってたものこと)が再び手に入ることもある。

気づいたらそばにあったなんてことも起こりうるかもしれない。


だからそういう意味では、本当に

どうしたら私は幸せなんだろう?

どんな生き方がしたい?

どういう暮らしだと息がしやすいんだろう?

って考え続けることが、私はなんかそれ自体が生きてるって感じがするなぁって思う。


誰かのせいでもなく

自分がどうしたいか?

それを考えたり、また選択できることはとっても恵まれてて幸せなことなのかもしれない。

きっと世の中にはそんなこと考える余地もなく、選択できない人々もいるだろう。


自分は選べる(結果云々ではなく)ということ自体が、実はとっても恵まれているんではないか、

というとこに

これを書きながら気がついてしまった。


自分でも思ってもみなかったことに行き着いて、

ちょっと今自分でもびっくりしている。



そう私たちはこうして悩めること、

生き方を選択できること、

そういう時代に生きてることは

実はとても恵まれてるのかもしれない。

その上で、

「じゃあ私はどうする?」と考え続けていくことなんだろうなぁ。


それにしても

以前住んでいた場で私は”今自分がやりたいこと“を自然な形で既にやっていたんだよね。


子どもたちは学校へ行かないとなって、

私はそんなこと自分では全く経験もないし、周りにもいなかったし、どうしましょってことで本当に心底困って。

だって小学生の子どもたちみんなが、

学校へ行くのやめたと言ってうちにいるんだから、ほんと「こりゃ困ったな、どうしたらいいんだろう」という感じだった。


だけど無理やり学校へ行かすようなことしなくて、そういう発想もなくて、


だったら学校へ行かずに、どうやったらこの子たちはイキイキと育つんだろう?って考え続けてた。


みんながうちにいるもんだから、子ども4人と私とで、まるでこれはもうおうちフリースクール状態やなって思って。笑


教科書なんて学校からもらってきても、見もしないし開きもしない、手にも取らないし。笑

そしたらブックオフとか暇だからよく行ってたら、漫画はやたら好んで読むんですよね。

行くたびに買って、んでうちでもみんながみんなめっちゃ本読むようになって。

そしたら難しい言葉覚えたり、豆知識仕入れてたり、漫画から子どもたちめちゃくちゃたくさん学んでるやんって、びっくりして。


本はいくらでも好きなだけ買ってた。


もちろん図書館にも通いまくってた。

近隣の図書館カード、家族分作ってるから、ほんとうちには常に大量の図書館本もあった。


子どもたちの教科書は本だったし、先生も本だったね、今から思えば。

別にそんなことは意識してたわけではないけど。


で、気づいたら壁一面、もう本棚にも壁にも収まりきれないほどの本がうちにあった。


子どもたちは出かけない時期もあったし、そしたら私はなんとなく社会と断絶されてるような、なんとも言えない孤独感に襲われて本当に苦しい時期があった。


で試行錯誤でやり始めたのが、人をうちへ呼ぶことだった。

ワークショップしたり、DVD上映会したりして、うちになるべく人が来てもらえるように、考えた。

その時はもう自分がヨガを教えるのはストップしてたから、よもぎ蒸しの人に来てもらったり、性のお話会もしたし、サリーを着てインド料理食べに行ったりね。


で、我が家にもわちゃわちゃとした子どもがいるので、参加する方も気楽に子ども連れてくる。


私は子どもたちが学校へ行ってなくて、こんなふうにうちで過ごしてることをとてもオープンにしてたので、そういう状況をみんなが知ってて我が家と関わってくれていた。


で、付いてきた子がお母さんを待ってる間に、我が家にある本読んだりしてて

「これ面白い、続きが読みたい〜」

とか言うと

「いいよいいよ持ってって。次来る時返してくれたら」って私や子どもたちが言ったりして。



これもう今やりたい形そのままやってたやん、と思った。

そんなことやりたい!やろう!なんてこれっぽっちも思ってなかったし、戦略なんてものももちろんなかったし、たまたまそうせざるを得なかった試行錯誤の末に”そういうかたち“があったってこと。



今はそんな暮らしはもうないわけで。



だけど、それに引き換えに、その時の私に必要なものがあった。

だから住む場所を変えることを決めた。


その時のその暮らしにはあったけどなかったものが、暮らす場を変えたことで手に入った。

当時の私は(私たち家族は)そっちを優先することを選んだ。



で、バランス。


この土地で、またそういうことがしたくなってる。


そこでしかできないことだったのか?

今の暮らしの中でもやれることがあるんじゃないか?

たとえ小さくでも。


ということを考え始めている。

ここでやれることがあるかもしれない。


形は違うかもしれないけれど、そうやって自分の生き方のバランスをとっていくんだともう。

特にさ、独り身ではなく家族がいるから自分の思い通りになんてことは進まなくて。

だから尚更バランス、どうやったら取れるかなって考えていくんだと思う。


長くなりました。

読んでくださり感謝しています。



南区にあるまちのお茶の間菅原商店。
ルチャ・リブロっていう奈良県の東吉野村という土地で人文系私設図書館をしている青木ご夫妻の話が聞きたいなぁと思ったから。

2時間という時間は短過ぎたけど、みんなが声を出す時間があったのはよかった。
真兵さんは合気道もしている、そっちにも参加してみたい。

”土日休みの仕事でも、職場で合間にお茶を立てる“
が今日1番、全体の話通しての象徴的な話だと思った。

生き方働き方、探していると
その人になろうとしてしまうことがある。
だけど青木さんは青木さんの過程で、今の形があるわけで。

田舎に行けば、自分が欲しいいものが手に入るわけではないってこと。

こまったことがある、
どうしよう、
ああでもないこうでもないと考え試行錯誤すること、

周りの人には結果だけ見えるが、
その過程のなかに“その人”がある

これは嫌
こうがいいかも
違和感、
など
自分で考えやってみる、なんか違う、
そういうプロセスの中でしか自分が見えてこないんじゃないかと。

何を選んでもいいんだと思う、
というのは
今の年齢になって、少しそう思うようになってきた。
そうしようと決めた過程にこそ、
自分が詰まっていると思うからなんだなぁ。

10年経ったとのこと。
10年やってきて、のお話も少し聞かせていただいた。

私の試行錯誤の子育ても、本格的に困ったなぁどうしよう、となったのが10年くらい前。

気づいたらうちに山ほど本があった。
最初から本を集めようなんてこれっぽっちも思ってなかった。

子どもたちがうちにいることになって、じゃあどうしましょってことで本屋行ったり図書館行ったり、そしたらマンガとか本から学べることがいっぱいあって気づいたら置き場がないくらい、壁一面が本になってた。

試行錯誤してたらたまたまそうなったって感じ。
終わってから海青子さんと話したのだけど、その時間もとてもよかった。

青木さんたちのそんな過程の話と、自分の10年を振り返りながら聞いていた。

私はまとめることがどうしても苦手なんだけど、(だから聞きぱなし、メモにも殴り書きしっぱなしになることが多い)ちょっとまとめて書いてみようと思った、

ちょうどいい塩梅を探し続けるということ。
バランスとりながら、けど時にバランスくずれる時期もあっていいし(例えばめちゃくちゃ仕事に没頭する時期とか)

そして自分がどうしたいか、で進んでった方がなんかいい気がするってこと。
軸はそこで。
聴き合う会をこれから始めようと思っているのだけど、まずは開いてみる。
私設図書館もなんか小さくでもやれるやり方がある気がするなぁ。
やりながら考えるのが自分にはあってるから、まずはやってみるだな、と思った。