それからの推し活
母が存命中にエントリーしていたイベントが3つ
ヨンファソロコン神戸と横浜
その間に剛の舞台…京都でも公演してたのに何故かチケット取れたのが京都ではなく、東京、しかも大千秋楽💦
正直、いくか行くまいか、そうとう悩みました。
行ったら楽しいだろう事は想像に難くないのですが、気持ちが重くてなかなか決断できず…
どんなに自分の身体が辛くても
「行きたい所に行ったら良い、お母さんの事は気にしなくて良い」と言ってた母
「怪我せず元気に帰って来たらそれで良い」と。
なので母が逝ってしまう3,4日前のCNBLUEの神戸にも行けた訳で。
ただ、母がいなくなった今、遠征してもちゃんと無事に帰って来れるか、もし怪我でもしたらどうしよう…とか、変に不安になって…
駅の階段から落ちるとか、ひったくりやスリにあったり、無くし物したりしないか…とか。
なので、まず手始めにヨントンからチャレンジ
これは母がいなくなってからのエントリー分
KNKのクリスマス🎄のヨントン、それでも申し込んだけどやっぱりもう良いかなぁ…とか
重い気持ちを頑張って持ち上げて、やったら意外と普通に(むしろ変にテンション高かったかも?)出来た気がして…
がしかし、年明けのヨンソロ神戸は、またしても気持ちが重く…
そしたら、初日のハイタッチ会当選のメール。
14年BOICEやってるけど、ヨンファと直接、接する機会は初めてだったので、これは背中を押してくれてるのかな?と良い様に理解して行って来ました
一回行ったら翌日は勢いついて、そのままの流れで行けました
会場着は結構ギリギリでしたけど💦
さて、その次は剛の舞台、日本青年館
新幹線乗って東京…行けるのか?
東京の友達に慎吾の誕生日近いから、いつもの仲間の集いがあるのか聞いて見たら、残念ながら2月の三連休にやるらしく。
でも、来るなら声かけるよ!って言ってくれて、日帰り観劇だったけど、昼公演だったので、観劇終わりにお茶する約束に。
人との約束はもし反故にしたら相手に迷惑かけるし、気のおけない友とのお喋りは気分転換にもなるし…と言う事で何とか気持ちを上げて上京
そしてヨンソロ横浜、三連休だったので、公演日程が決まった時にホテル予約していたのと、新幹線は割引率の高い早割でEXPRESS予約していて、変更きかないし(一旦払い戻ししないといけない)、行かなきゃいけない状況に自分を追い込んでいき
前日まで荷造りもしてなくて💦
2泊なので、買わなきゃなぁ…と思っていたキャリーが届いたのが出発2日前
色々あって、今回は現地でBOICE友に会う予定もなく、完全ひとり行動。
でも、それが良かったみたい
行きたかったお店でご飯食べて、行きたかったお店に行って、観光スポット色々ウロウロして。
それぞれのイベントについてはまた改めて書けたら書こうかな、と思います。
とりあえず、これでエントリー済みのイベントは全部終了
ヨンファのソウルソロコン、色々盛り沢山ではあったけど、まだ海外に行くだけの気持ちは起きず…
東京でのヨンファのBDに行われる追加ソロコンはとりあえずエントリーして見ました
その前にKNKヨントン、makestar
これもエントリー締切ぎりぎり😅
BUILD UPにインソン出てたし、3人体制だけど何かしらリアルイベントやっていく彼らの応援したいし…
今までなら、多分、現地に飛んでいたよね…でも、それはまだ無理かなぁ…ひとりでは特にね。
少しずつ、少しずつ…
難しい…
思いを形にしたり、文字にしたりって、難しいですね…
今もまだ母への後悔に、突然😢したり、会いたいよぉ〜って、ぽろっと口から出てきたり…
そういう色々をここに書き出して、整理していけたらと思ったのですが、そうなるとうまくまとめられなくて…
なかなか更新出来ずにおりました→で、久しぶりの更新が推しがオーディション番組落っこちた話ってどうよ、自分
一番の後悔は、何故「余命一年」との宣告に「一年ある」と思ってしまった事かなぁ。
実際、一年と言われても何年もご存命された方もいらっしゃるので、そこまで深刻に受け止めてなかったのか、ワザと受け止めなかったのか…
その後も足の浮腫がひどくなる10月頃までは普通とは言えなくても、それまでも大差なく母は日常生活を送っていたので、実感として感じられる物がなかったのかも。
腹痛を訴えた時、近所のかかりつけ医に行って薬もらって、治ったからか、母自身もその診断を信じて大学病院でも、肺がん手術した病院でも医師に話さなくて…
かかりつけ医から、あんまり痛かったら、救急車呼んで、この封筒を渡す様にって渡されていた封筒の中身、母の遺品整理をしていた時に読んでみました。
かかりつけ医として、精一杯してくださってた事を感じました。
ただ、転移していた事がわかった時には、腹膜に既にかなり広がっていた様なので、母か付き添っていた父か、どちらかが、担当医に話してくれていたら、もしかしたら…という思いもあり、また、なら何故自分が付き添って、母が言わないようなら代わりに言えば良かったやん?って自分を責める事もあり。
おそらく自分ひとりしかいなければ、母と自分以外、誰も居ないので、やるしかない!となったのかもしれないけど、父も姉も弟もいるので、どこか誰かがやってくれる、やってよ!って思いがあったのよね。
責任の重さに怖さもあったし。
抗がん剤の点滴治療を始めて、通院やら体調の事やら色々あって、病院内に相談センターがある事を初めて付き添った時に知ったのだけど…
姉や弟に情報共有しても、誰も動いてくれなくて…
ある事を知った時に即相談してたら…
正直、もう少し早く、相談して、介護医療や訪問看護の話を進められてたら、少し母は体力的にも楽になって、もう少し…本人の望む孫2号の大学試験の結果を聞く事が出来たのかも…と思う。
手術以外にも検査入院や治療薬の調整の為の入院を何回かしてきたので、その度に足が弱って歩きづらくなるようで、尚更入院はしたくない、という思いが母にはあったようで。
自宅生活の中でも、ベッドに寝ていた方が楽だろうに、台所の椅子に座って、トイレも椅子からひとりで立たなくなっても、足のむくみから水がぽたぽた吹き出して、床が足跡で濡れても、自力で出来る事は自分でしたがった母。
思いを理解してはいたけど、その代わりに間に合わなくて粗相する事も多々。
その度に汚れた下着や、衣服を洗わねばならず…
何なら母の身体も大量のお尻拭きで拭かなければならず。
いや、いっそシャワーで洗った方が早い時もあり…
汚れた服は、外の水道で一旦洗わなければ、洗濯機にもかけられなくて。
それなのに、なかなか紙パンツは受け入れてくれなくてイライラした事も多々。
飲んだら薬の影響で、普通に洗った位では臭いが取れず、何度も予洗しないとならなくて…
その度に知らず知らずため息😮💨…きっと母には聞こえてたよね
「普通でいたい」という思いが強かった母。
だけどそれを理解した上でサポート出来る程、寛容な父でもなく、しょっちゅう喧嘩してたふたり。
職場の退勤時間になると、たまに母からSOSの電話。
食べられないのに父は母の食べられる物が何も作れないどころか、「俺の晩御飯は?」と母に聞くのも普通で。
母に言われて買い物に行く父、けど母が食べられるものがないので、うどんを作って欲しい…と。
ある時は残業していて、8時過ぎたし帰ろう…と片付け始めたところに電話…迎えにきて欲しい、父とは無理、との内容。
急いで実家に向かう途中、姉と弟に連絡
到着した時には弟も帰宅していて、なんか適当に色々突っ込んだ鞄が幾つかあって…
私の家に連れて行って欲しい…という母、喧嘩した筈の父は既に布団の中…
10時を回っていて、流石に空腹で考えが整理出来なかったので、とりあえずあるもので晩御飯食べて、持って行く荷物を整理して詰め直してたら…父が目を覚ます💦
父と私の口論になり、しまいには「誘拐や」と言い出す父に、正直、押さえ込んでた母を連れて帰った後の心配事がむくむくと顔を出し…
結局、母が「もういいよ」と折れて我慢する事を選択
あの時、何も考えずにご飯なんて食べずにさっさと母を連れて帰れば良かった、そうすればもっと早く在宅医療に切り替えて、体力の消耗も少しは回避出来、死期を少しは遅らせられたかもしれない…後悔しても遅いけど。
やっぱり…
日本では放送見れないし、昨日、インスタとかYouTubeとかのハイライト探しても見つからなかったから、まだ放送されてない?2:2は次週?いや、でも観客募集してたし…???
って思ってたら、落っこちてたのか…
まあね、放送分量(といってもハイライトとかのやけど)見てたら、なんとなく感じるものはあったけどね。