アイツは今日もどこかで誰かと。 -3ページ目

田舎モンと都会ジン

数日間、鳥取と島根を観光していました。とても田舎で、電車の1時間待ちは当然で、バスは1日に4本しか出ていないものもありました。そんな文化に触れて、いよいよ書く時がきたか…と思いましたのでこの「田舎者と都会人」テーマを書こうと思います。


と、言いますのも私は高校を卒業して上京したわけですが、その生活を始め都会に良い感じに染まって(慣れて)行けばいくほど地元に残っている友達との距離を感じてしまうことがあったからです。つまり触れてはいけない話題なのです(笑)ある意味地元にいる友達を卑下する内容になるかもしれないわけですから。


ではなぜその「距離」を感じたのか。それは私が地元に帰り、地元の友達と遊んでいると「東京は良いなー」とか「栃木は何もないし」みたいなことを聞いていたからです。まるで田舎に住んでいることに劣等感を抱いているかのようでした。


たしかにそれはあると思います。都会に憧れる理由みたいなものは確かにあります、でもそれは夢物語のような気がしないでもないですけどね。いくつか例をプラス面、マイナス面と共に挙げてみましょう。



・都会はなんでも揃っているから
>田舎では映画を見たければ車で何時間、スーパーまでは車で数十分、コンビニはもっと遠い、学校帰りにゲーセンやカラオケなんてないという現実は多々あります。一方都会ではコンビニは歩いて数秒、学校帰りに寄り道する場所、デートコースはいくらでもある。だから都会楽しそう、良いな。という理由


けれどもそれが良いことかと言ったらそうでもない。確かに不便であるから人々のニーズをカバーできない。行きたい大学が地元にないから上京する人がいるように。潰れない八百屋さん、駄菓子屋、下校途中に公園で遊び、話した思い出。それは決して悪いことではないと思う。(私は嫌いですがw)まぁ栃木の場合ですと車ですぐ都会に行くことが出来るので私は劣等感みたいなものはなかったです。その田舎独特の人間関係も嫌いではないですし。


・さまざまな出会いがある
「東京で大学生してたら合コンばっかだろ?」「芸能人に会った?」は地元の友達が良く言っていたセリフ。都会に出れば奇抜なファッションの人、かわいい子、イケメンそれはもうたくさん居る。一学年40足らずが当たり前な中学生活をしていたら考えられない、多くの人との出会い。たしかに現実としてそれがある。ただ、それが良いことかと言うとそうだろうか。


実際私は「多くの価値観、考え方に触れた方が人間として成長できる」と考えているので多くの人と知り合える都会が好きだ。けれどもみんながそうではない。先に言っておくと「孤独死」が多いのは人が多い都会でよく起こるのである。つまり人間関係の濃淡。マンションの隣人の顔を知らない都会人、同じ町内の人の噂なら全部知っている、噂の感染速度が高速な田舎。良くも悪くもあるけれど、人が少ない中で孤立するのと、人が多い中で孤立するのとではレベルが違う。


このように田舎者が劣等感を抱く理由としては
・すべてが揃っている都会に住む人は(自分たちが持っていないものを含めて)すべてを手にしているという誤解
・実家の他に住む家があるということは、自分たちより広い世界を知っている。だから上京した奴は自分たちより世間を知っているという誤解
があると思います。では次に都会人と田舎者の人物像について考えたい。



一般的に田舎者はのんびりしていて、都会人はせっかちであると言われている。間違ってはいないからそこに触れることはしないとして…いくつかのテーマに分けて論じていきます。

・不便だとグレる?
「田舎のやんき—」って言葉が良く使われています。なんとなく想像はつくものの「都会のやんきー」と何が違うのか。品?常識?視野の広さ?正直私にはわかりません。しかしヤンキー=田舎という考え方は出来るかなと思います。
例えば、中学生が夜の7時まで遊んで家に帰るとする。都会であれば電車は待つことなくすぐに来て、駅から家までの距離はそう遠くないからすぐに帰れるだろう。一方の田舎。7時まで遊んで帰りの電車は1時間待ち。駅と駅の距離が長い田舎は駅数の割に時間がかかる。さらに駅から家での距離がバカみたいに遠いと自転車で何十分とかかるであろう。(私の場合実家から駅まで自転車で30分はかかる)。そうなると帰宅時間が遅くなるのは必然。かと言って夕方5時になったら遊ぶのをやめろというのは無理な話だ。


それに中学生と言えば少しスリルを感じたい時期でもあり、夜遊びに興味を示す頃。帰宅時間が仕方なく遅くなっているにしても「夜」を感じる時間は都会より多い。そして高校生にもなれば駅と家までが遠いために交通手段として「バイク」が手に入る。しかし高校生にもなれば自我が目覚め「人とは違う自分らしさ」を求めるようになり、それがバイクの改造となる。交通手段が手に入っても遊び場がないことに変わりがないため、ただバイクで暴走行為をする、友達の家、コンビニ前でたむろする。人口が少ないため「井の中の蛙」状態で自分がいちばんだといきがる。これが「田舎のヤンキ—」誕生のメカニズム(笑)


・キャリアウーマン=都会の女のイメージ
女の子というのはどこに住んでいるにしろ、かわいくいたいし、恋をしたい、幸せでいたいという思いは持っているのではないだろうか。私は田舎の女の子って働き者だなと思うことがある。同じ働き者といってもキャリアウーマンは都会にいる。パートのおばさんと聞くとどこか田舎っぽく感じるのは私だけだろうか。


田舎の学生の地点から考える。かわいくいたい、恋をしたいならばお金は必要だ。可愛い服は少し栄えた大きいアパレルショップにしかない。ならば交通費もかかるし、物価も住んでるところより高いだろう。しかし住んでいるところは田舎だから時給が低い。ということは例えば1万円のモノを買う時に、時給1000円の都会少女は10時間だけ働けば良い。しかし時給750円の田舎少女は14時間ほど働かなければならない。という点もあれば。


アルバイト先には田舎故に常連さんしか来ない(なかなか田舎に新規客は来ない)。お店にとって常連客を失うのは大ダメージ。店員と客の関係が深いため、愛想の良い接客をする田舎の少女。一方客に愛想良くしなくても新規客が多い都会少女は、客に媚びないし、出会いの多い都会故人との接し方はプロなため客との対話もテキトーに笑顔で流す。つまりやる気があまり見えない、感情を排し機械のように働くのが都会少女。という見方もある。


こうした少女たちが大人になる。真面目に愛想良くしていた優しい田舎少女が、やれ利益やれノルマといったガツガツしたビジネスの場で生き残れるか?否、パートのおばさんがベストポジション。人との接し方、機械的業務のこなし、そういう観点から都会少女はキャリアウーマンへ。


どちらが正しいとかそういうことはないと思います。ただ田舎で育って、都会で生活している今はけっこう幸せである。あのまま田舎の閉鎖的空間で暮らしていたら経験できなかったことも実際に出来たと思えるからです。しかしだからといって優越感に浸ることないでしょう。同じく田舎にずっといることに劣等感を抱くこともないでしょう。でも気になることがひとつあります。実際に田舎の若者はどう思っているのかということです。


都会というきらびやかなところは楽しそう、便利で良いな…。島根県に大森地区という江戸時代の街並そのままののどかな場所があります。そこにパソコンがあるだけで少し奇妙な光景になるほどの田舎です。私はそこを訪れてある昔ながらのお蕎麦屋さんに入りました。そこには私と同年代のアルバイトが2名いました。
ひとりは女の子。私のことを食いつくように見ていました。本当に田舎で全校生徒数名の木造校舎の学校に通っていた人からすれば「知らない若い男」に会う機会というのはあまりないのでしょう。珍しがっていました。


もうひとりは男の子。都会にいそうなオシャレさん。コンビニはもちろん最新の雑誌が売ってそうな本屋もないこの町であれくらいオシャレで居るには、テレビ、ネットで見るか車でわざわざ遠出して雑誌やショップに行くしかないでしょう。その現実をどう受け止めているのだろうと私は少し考えました。


話は少し変わりますが、東日本大震災。仮設住宅を映す時に出るのって小さい子かお年寄ですよね?なぜ若者は映さないのでしょう。見ても同情が買えないからそもそもみんないない?遊びたい盛りの若者の仮設住宅生活のリアルを私は知りたい。便利と不便の差で都会と田舎の生活に差が出て、田舎生活に劣等感を抱くならば、ここでのリアルはとても大切な答えとなる気がする。


田舎の町は知らなくても「東京」という都会を知らない日本人っていないですよね。だからこそ東京暮らしってある種ブランドがついてるのだとおもいます。おそらくそれだけなんだとおもいます。きっと。


しかしそれでも「住めば都」という言葉を完全肯定することは私にはできません。

さぁサンタクロースの証明を始めよう

サンタクロースはいるのか?この問いに季節外れの夏にあえて触れてみたい。
そもそものきっかけは日本推理作家協会の「Bluff 騙し合いの夜」というミステリー小説の短編集の中にある「パラドックス実践」という門井慶喜氏が描いた話である。


この話、実は私が中学のときに書いてみたいと思った話と似ている。例えば一般的な学園ドラマといえば、不良生徒が主役で、彼らを教師が立ちなおさせるというストーリーである。
一方でこの話、それに私が書いてみたいと思った話は「生徒がとてつもなく頭が良く、それについていけない教師が悩む」といものである。


この「パラドックス実践」の中である生徒が教師に対して問う。「サンタクロースはいるのか証明してください」


私が小学生のとき、やんちゃでクラスでは目立っているような生徒があるおとなしい女の子に「サンタクロースなんていねーよ、あんなの親がやってんだよ」と言った。まだ小学校低学年だったため、信じている子はたしかに何人かいた。私は親がやっているのは知っていたがその女の子がどうも可哀想で、というのもそのやんちゃな生徒が嫌いだったから(笑)言った。
「ってことはサンタクロースはいるってことだよね?」
つまりこうだ。サンタクロース イコール
親。ならば親が存在するならサンタクロースは存在するということだ。ずいぶん理屈っぽいが小学校低学年の、しかも頭の悪い生徒を黙らすには十分な理屈であった(笑)


つまり定義の問題である。
サンタクロース=クリスマスにプレゼントを運んできてくれる人
であれば佐川急便の配達員がもしかしたらサンタクロースになるし、サンタクロース=赤い服着てトナカイと居る人であれば、そのような人は皆サンタクロースである。


太陽が東から昇って西に沈むなどという不変の真理は無理だが、曖昧なものは自分の判断基準でどうにでもなる。だからこそ人には「集団の意見に簡単に合わせてしまうようなこと」はしてほしくない。
どんなにテレビが言っていても、どんなに偉い先生が言っていても、自分で考えてみよう。


オリンピックでメダルを取ることが絶対ですか?

モー娘。は恋愛革命を起こしたのか?

久しぶりです。ふと思ったのですがモー娘。って恋愛禁止でしたっけ?


今日の話は軽い恋愛史です(笑)
まずはじまりはバブル期です。金遣いは荒く、遊びまくるサラリーマン。この頃はまだまだ男性社会色が強かったためか女性のカラダは安く買われ、性の価値が低下していたのだと思います。「愛なんていらねぇよ、夏」なんてありましたからね(笑)



その性が軽視されていることに警鐘を鳴らしたのが雑誌an anではないでしょうか。「愛のあるセックス」という言葉を流行らせたのがan anという話を聞いたことがあります。愛こそすべて、愛は誠。人々は、特に女性は愛を求めるようになります。愛に溺れます。愛のないセックスなんてしない、愛してくれるオトコが欲しいと思いながらもそう簡単に愛が見つけられたら苦労はしないわけです。いつしか愛を見つけられた人とそうでない人の格差が広がり「恋愛二重構造」みたいなものが出来たのではないでしょうか(笑)


女性の社会進出も拡大し、恋する権利も余裕も出てきたことでそれなりの「オンナとしてのプライド」を持つようになったことも要因のひとつではないかと思いますが恋愛の数が減少してきます。


そこに待ったをかけたのがティーン雑誌のエロ特集、あるいは少しの時を経て出てきた女子高生のリアルを描いたケータイ小説です。これらは「若者は愛なんてなくてもヤリまくってますよ」というメッセージを与える目的であると思うのです。恋愛しようと思えばオシャレをするため雑誌に掲載された商品が売れるため、あるいは真面目に若者の読書離れを引き止めるためなど様々な要因が考えられますが、とにかくこういったブームが来ます。
決定打はモー娘。LOVEマシーンや恋愛レボリューション21などで「みんなで楽しく恋をしよう」を訴えていた。たしかに考えてみればそれまで流行った曲は「恋愛はつらいもの」という思いを綴ったバラードが多かった気がします。そうした流れからなのか色気づく女の子たちが増え、若くして読者モデルやグラビアアイドルになる人たちが増えました。


愛を求め、愛に飢えた時代から偽りの愛で満足し、表面上の人の優しさに溢れた時代へ。思いやる心が薄れ「自分磨き」に必死な人たちが増えてきた。けれども政府などが作る社会的な流れは「みんな一緒、格差是正」似たような「個性的キャラ」が多すぎていったい何が個性的なんだと言いたくなるけれども。まぁ良い、人の承認欲求が尽きることはない。人づきあいから「自分磨き」をするべきだ。