アイヌと「日本」

函館中央図書館 「アイヌ風俗絵巻」 

ブドウとコクワ採り 魚の突き漁 

昆布とり アイヌの家に和人をご招待

アイヌ問題をやろうと思ったきっかけ。軍国主義、ナチズム、パレスチナ

日本では、日本人と言われる人が、「家」だの、「国」だの、「○○会社」社員だの、「××学校」生徒だと…言って、その範囲の価値観で思考、行動する。それが習い性(せい)となって、自分たちが特殊な集団だと思い込む選民思想に陥りやすく、やがては戦争を起こすのではないか? 明治から昭和にかけての軍国主義がそうだった。

ナチズムの「人種には優劣があり、優秀な人種の純粋性を保つために劣等人種は抹殺されなければならない」というのもある。かつて抹殺されそうになったユダヤ人国家のイスラエルが、現在、なぜかパレスチナに同じことをやっている倒錯は理解不能だ。日本という国はこれに対し、基本的には2国間解決の立場をとっているが、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)に対し、フェイク情報を利用して追加支援金を簡単に停止した。その後、フェイクとバレてUNRWA支援を再開したが、日本はパレスチナ虐殺に対してイスラエル側のアメリカの動向次第。憲法に違反してもアメリカとの約束を守る国だからね。情けない。

 

以上は脱線ではなく、この日本女性史のシリーズで、アイヌ問題をやろうと思ったきっかけです。

19世紀前後の北海道アイヌ、サハリンアイヌ、千島アイヌの居住地

アイヌと日本の関係は、歴史において先住民族と侵略国家との関係だった。アイヌの居住地は、北海道を中心に本州北側、サハリン南部、千島列島、カムチャッカ半島南端という広大な地域。縄文人の末裔。琉球人も縄文人。日本人のルーツは北海道から沖縄までいた縄文人と大陸から渡来した弥生人が混血した「倭人」(のちに松前藩が和人と呼んだ)。

 

一方、縄文人より古くからいた「港川(みなとがわ)人」も縄文人と同じ祖先から枝分かれした日本人のルーツだが、現代人に港川人の遺伝子は見つからない。

 

旧石器時代の港川人の全身骨格と復元図 50年前、沖縄で発掘された。

「自己中心」の日本や中国、「異民族と共存共栄」のオリエント国家

弥生時代になって、クニとクニの戦いがとめどなく続き、最後に勝ち残った豪族が、ヤマトの大王(おおきみ)となり、後の天皇になった。その大王一族の神話である日本書紀では、天の国にいた神アマテラスの孫が九州の高千穂に降りてきて、その子孫のカムヤマトイワレヒコがヤマト(奈良県)に侵入し先住民に勝利し、天皇の位についた。その日が今の日本の神話起源の「建国記念の日」。

ヤマト王権は、自分たちのことを「神の子孫だ」といって、ヤマト王権に従わない関東以北の民を毛人(エミシ)、九州南部にいた人々を熊襲(クマソ)と呼んだ。

中国では、世界の中心を自分たち(中華)と考えて、北は「北狄:ほくてき」、南は「南蛮」、西は「西戎:せいじゅう」、東は「東夷:とうい」と考えていた。中国に対して「東夷」の倭の国の卑弥呼は、中国に貢物を持っていって国王と認めてもらった。7~8世紀の天皇制国家は、日本の中の異民族は、エミシ、エビス、エゾ、クマソ、ハヤト、クズ、ツチグモなどと記録している。生活習慣や文化が都の人とは異なると、中国のように自己中心的に自分たちが「純粋人種」と考えて差別する。こういう考えは必ずしも世界においてはスタンダードではない。古代のゾロアスター教とか、イスラム教の世界は、唯一絶対の神を信仰していたが、異民族とは共存共栄して大きなオリエント国家を築いた。

イスラム文明が輩出した高名な学者たち(医学、数学、物理学、天文学)

イブン・スィーナー(980~1037)イブン・ルシュド(1126~1198)イブン・ハイサム(963~1040)

アイヌは侵略によって周辺に追いやられた日本人という説があるが、もともと住んでたのが日本列島からみれば北部の端っこだったのである。侵略、略奪したのは「和人」だった。北から侵略してきたのはロシアだった。そしてアイヌの居住地は、日本とロシアに支配されてしまった。北方領土返還というが、返還というなら、アイヌに返すべき。

3世紀の東アジア時代(三国時代)アイヌは国家ではない。

 

アイヌ民族が「先住民族」と認められたのは、わずか5年前

1899年、明治政府が「北海道旧土人保護法」を制定。アイヌは「旧土人」で政府は先住民族との認識はあるが、国定教科書では、第2次世界大戦敗戦前まで行政用語では「旧土人」で、保護法で実際に行われたのは「土人」から「和人」への同化政策。

明治時代ではアイヌも(天皇の)臣民、だけど旧土人。戦後はアイヌは日本国籍をもつ「国民」と把握されたが、民族的属性への配慮を欠いて、未だ、日本には単一民族神話があり、先住民族として共存していることすら、北海道以外では全国的な理解とはなっていない。「アイヌの遺伝子なんて今日日、薄まってしまって日本人とほとんど変わらないでしょ」というのもおかしなハナシだ。遺伝子やDNAはそもそも薄まるものではない。

(初のアイヌ民族国会議員、萱野茂さん)

 

その後、アイヌ政策は「アイヌ文化振興法」(1997~2019)を経て、「アイヌ施策推進法」(2019~)の時代。

 

 

杉田水脈議員のアイヌ差別発言こそ「気持ち悪い」?

衆議院議員の杉田水脈が国連で見かけたアイヌの女性に「民族衣装を着たコスプレおばさん」「同じ空気を吸っているだけでも気分が悪くなる」とX(旧ツイッター)に書き込んだのは、本人は差別ではないというが、日本人の民族衣装である着物を「気分が悪い」と言われたらどうだろう? 年の初めに国会議員が揃って和服を着るのを「コスプレ、気持ち悪い」とマスコミは書かない。札幌法務局が杉田議員の発言を人権侵犯だと認定した。本人は認めていないし、岸田首相もノーコメント。アイヌの人たちは「これ以上黙っていてはいけない」と抗議した。

通常国会での「和装振興議員連盟」 水色が杉田議員。

 

今回は江戸時代までのアイヌの歴史とその豊かな文化と暮らしについて紹介したい。現在、アイヌとして生活している人は2万5千人のマイノリティ、アイヌの歴史は日本史とは別ではなく、日本史の中でアイヌ語を話し、アイヌ文化を持った人たちの歴史である。だから明治の開拓以前と開拓以後という区分は和人の視点。

アイヌの歴史は、日本で人が住み始めたのと同じ旧石器時代から始まる。しかし、考古学区分は13世紀以後はずっと「アイヌ時代」で、時代にその民族名をつけるのは?だけど、アイヌ文化が確立して明治になる。アイヌの時代区分は学術的には決定していないから、年代(○○世紀)に加えて、アイヌ(北海道)の時代区分、本州の時代区分を入り交えて、縄文時代からGo!

 

アイヌの歴史

1 縄文時代から続縄文時代(日本は縄文・弥生・古墳時代)

ヨーロッパでは、時代区分を使っていた道具によって区分した。旧石器(打製石器・狩猟採集社会)→新石器(磨製石器、土器・農耕、牧畜社会)→青銅器(国家や階級の成立)→鉄器。この区分は東アジアにはあてはまらない。

農耕、狩猟採集、放牧などの形態と使用する土器は、それぞれの地域でちがい、文化も異なる。

アイヌ歴史年表

アイヌと日本の縄文時代のスタートは1万5千年前。北海道で縄文土器が出土し、青森の三内丸山遺跡では北海道の黒曜石の矢じりが出土していることから、北海道から海を越えて、アイヌの祖先の縄文人と本州の縄文人は交易をおこなっていたとされる。アイヌは和人を「シサム(隣人)」とよんだ。

紀元前4世紀頃に大陸から九州北部に移り住んだ人々が稲作、鉄器、青銅器を伝え、東日本に伝わっていく、そして、現地の縄文人とまじりあいながら、「和人」の祖先となった。

ところが北海道の縄文人には金属器は伝わったが、寒冷な気候のため、稲作は入ってこなかったので、アイヌは縄文時代から続く、狩りや漁、採集生活。これをアイヌの歴史では「続縄文時代」と呼ぶ。

 

2 オホーツク文化時代から擦文時代(日本は古墳・飛鳥・奈良・平安時代)

古代における蝦夷征伐とは何か

蝦夷征伐の記述がある古事記・日本書記などの史書は、権力者による都合のいいもので記録的な価値はない。記紀によれば、アイヌ(蝦夷=読みはエゾ、エミシ、エビスなど)は中央権力に対し「まつろわぬもの」として、最初は軍事的征服でなくて、巧みな言葉で篭絡(ヤマトタケルが童女姿で欺いて熊襲を殺す話など)し、「武」で威嚇され隷従させられる。抵抗する者は虐殺していった。

 

高橋由一「日本武尊」

日本書記で、景行天皇はヤマトタケルの「蝦夷?WHO?」に対し、こう答える。

「蝦夷是れはなはだ強し。男女交じいて、父子別なし、冬は穴に宿ね、夏は巣に住む。毛を衣、血を飲み、兄弟相疑い、山に登ること飛禽の如く、草を行くこと走獣の如し。恩を承けては忘れ、怨を見ては必ず報ゆ…」。人類学者によれば、古代には東国の原住民部族とアイヌの区別化はされていなかった。記述はアイヌとは違う面もあり、武力制圧のための強暴化を煽ったもので、漢籍の文章のまんまコピーもあるらしい。蝦夷というのは王化に従わない存在で、東北も「陸奥:みちのく」と賤視蔑称していた。

6世紀ごろまでに、関東をほぼ掌中にした天皇国家は、大化改新を終えると、今度は東北と出羽(新潟から秋田)への侵略を開始する。虐殺で農村を全滅させ、降伏した農民は俘囚として柵で囲い、農耕させた。ゲットーだね。あるいは奴隷として西国に送った。これが古代の「蝦夷征伐」の実態である。学校では、古墳時代をへて、飛鳥、奈良、平安へと華やかな都の歴史と対照させた「蝦夷征伐」。抵抗する野蛮な原住民をやっつけて、原住民はやがて都の文化にあこがれて従い、文明の時代が広がっていったというイメージをもつ人が多い。

 

アザマロの反乱

天皇国家の侵略に対して、蝦夷、エミシを始めとする原住民族が容易に従わなかったのは当然である。狩猟採取の縄文人。川には魚が、山には鳥や鹿がいる。木の実、貝。これらの収穫物は自然(神)からのギフト。自分たちも自然の一員として、生きてきた。彼らの生活には自然や神に対する敬虔な祈りがある。この生活を未開だとか野蛮だと教える。アイヌの思想では、農耕のために木を伐採し、土を掘り起こすなどは、納得いかないし、その傲慢を許すことができない。命をかけて抵抗するのは「自然の怒り」であり、「神(カムイ)の怒り」だからである。

天皇侵略軍に対しての激しい戦いになった。

799年の「日本後紀」では、東北から北海道で狩猟生活を行うエミシを「山夷:さんい」、稲作農耕を行うエミシを「田夷:でんい」と呼ぶ。一度天皇政権に従ったエミシは「俘囚」といい、俘囚のうち、天皇国家に協力的な者は「夷を持って夷を制す」で首長の位と皇帝の位階をあたえたが、774年、俘囚の子孫の伊治(現在の宮城県栗原郡)の首長の呰麻呂:アザマロが差別的取り扱いに対し、反乱をおこす。天皇政権の拠点・多賀城を焼失させ、天皇国家の数万の遠征軍を森林原野から次々と襲い、風のように消える原住民ゲリラに、天皇派遣軍は手も足もでなかった。

 

アテルイ(阿弖流為)のたたかい

その後、10年以上もゲリラ戦はとめどもなく続いた。一方、桓武天皇は東国の武士を中心に5万余の軍隊を北方侵攻に繰り出した。789年、アテルイという蝦夷軍の英雄が現れ、抵抗軍の総師として、岩手県の「衣川の決戦」で10対1のゲリラ戦を行い、その精鋭ぶりで侵略軍を壊滅状態にする。アイヌの伝承では、胆沢地方(岩手県水沢市)は彼らにとっては、先祖代々のコタン(自然村)があり、原住民部族は女も子どもも一丸になって戦った。戦術は「蜂の如く屯し、蟻の如くに聚り、首として乱階を為す、攻むるときは則ち山藪に奔逃れ、放つときは則ち城塞を侵し掠む」(続日本紀)。そりゃ地元の自然は味方、武器でもある。衣川で侵略軍は川に飛び込み、裸身で溺死したのが3千人。天皇の命令が届くのも待たず、現地将軍は群を解散、都に逃げ帰った。

●鹿島神宮 悪路王首像 江戸時代に寄贈された。

アテルイを「悪路王」と呼び、田村麻呂と藤原利仁に討伐されたとする「吾妻鑑」の記述は、2人の生きた時代が違うので、地方伝説にすぎない。(桃崎有一郎)

 

それでも桓武天皇も執念深い。今度は792年に10万の第2次、801年に第3次の出兵。桓武天皇の母は朝鮮からの渡来人で、第2次と3次は渡来系民族中心の軍事専門家が登用された。征夷大将軍の坂上田村麻呂も渡来系。

坂上田村麻呂(758~811)/桓武天皇(737~806)

アテルイは、田村麻呂の懐柔工作の策略に破れて、母親のモイと共に京都に連行された。アテルイ軍は500名しか残っていなかった。命だけは保証するといわれたが、803年に河内国でモイと処刑された。

 

●歌舞伎「阿弖流為」阿弖流為・中村幸四郎 坂上田村麻呂・中村勘九郎

坂上田村麻呂の蝦夷征伐というのも、このような阿弖流為主役の歌舞伎で学んだほうが歴史学習としてもエンタメとしても有意義だ。

アテルイ以後の東北

胆沢の国におけるアテルイの戦いは「異民族の侵略」に対する原住民族の正真正銘の自衛戦争だ。内戦ではない。アテルイと共に戦ったこの地方の原住民族はすべて共同体や家族を解体され、天皇国家の奴隷とされた。そのあと、急ピッチに、天皇統治による異民族支配の要として城がどんどん築かれる。

古代東北地方 蝦夷征伐のための城柵配置図

侵略は大地を伝わってさらに北へ。秋田では独立戦争である「元慶(がんけい)の乱」がおきる。渡来人の血が混じったヤマト民族は狡猾というか、腕づくの前後にいやらしい取引をする。戦わずして方略を尽くしてだまし討ち、あるいは順撫政策で攻略する。それに文化は南から北上するという思い込み。抵抗の火は津軽へ、そして津軽海峡を越えて和人はついに蝦夷地(北海道・アイヌモシリ)に侵入してくる。

 

オホーツク文化と擦文文化

●7世紀の北方世界 南北がさかさまになっている

5~6世紀ごろ、サハリン(樺太)から北海道に海獣(アザラシ)などの猟を行い、ブタを飼育する人々が移住してきた。オホーツク海沿岸に集落をつくり、竪穴式住居に住み、貼付紋の土器を使い、クマに対する信仰があった。9世紀ごろまで「オホーツク文化」として続いた。

北東アジアでは、中国では6世紀末に随、7世紀初頭に唐王朝が成立、そのころ、北海道に住むアイヌは、東北北部の土師器(素焼きの土器)をまねて、ヘラで擦っただけの縄文をつけない土器(擦文土器)をつくる。

 

オホーツク土器と擦文土器 いちばんの違いは上部の模様のつけ方

この時期から13世紀までを、擦文時代といい、オホーツク文化との共存期。

 

3 アイヌ文化前期(日本は、鎌倉・室町・安土桃山)

「アイヌモシリ」、アイヌ民族は自分たちの土地をそう呼んだ。アイヌは元来「人間」という意味で、モシリは「静かな大地・島」のこと。自然の神を信じ、自然の法則に従って生きていた。本州のアイヌ民族はヤマト国家の蝦夷征圧によって生活様式をほとんど破壊され稲作を始める者もいたが、北海道以北のアイヌ民族は、少数の血族共同体で社会を構成し、定住せず、季節や狩猟に合わせ居を点々とする生活をする民であった。

その部落には、一族の長である「コタン・コロ・クル(コタン:村、コロ:持つ、クル:人)」というリーダーがいたが、「権力者」ではなく、ウタリ(仲間)という共同体の一員であった。アイヌ学者である高倉新一郎氏が採集した古老の談話。

「鮭はその季節になれば、部落が総出でこれを獲り、これを分けて貯え、熊をとった時は半里の先から声をあげ、その声を聞いて部落全員で迎えに行き、めいめいの家でつくった団子を祝いとし、熊の肉の分配にあづかる」。

 

●川でのサケ漁めぐるアイヌ先住権訴訟の判決後、原告団の記者会見

4月18日、アイヌ団体が「アイヌが生業としていた川でのサケ漁は集団に固有の権利」だとして国と道に「漁業権」の確認を求めた訴訟の判決があり、札幌地裁は「団体には憲法の幸福追求権に基づく文化享有権があることは認めたが、川は公共の空間なため排他的な漁業権を認める法的根拠はない」と請求を棄却した。漁協に漁業権が認められるのなら、アイヌにだけ川のサケ漁を認めるのに、何の不都合があるのか理解できない。国際的には、先住民族の先住権により、その文化は経済活動も含めて最大限認められるのが通例である。

アイヌは、鮭が川に何百匹も上がってきても、必要な数匹だけ獲ってあと後は残しておく。上流には熊もいる、他にも鮭をたべて生きている生き物がいると考える。日本人は今も昔もこんな考え方をしない。一網打尽に獲り尽くし、何年後かには、サケは川では穫れなくなり、熊は、冬眠前に上流でサケを食べて栄養補給することができず、里に下りてきて人間に殺されることになる。アイヌのような獲り方をしていれば、このようなことにはならない。サケはアイヌ語で「シペ」(本当に食べるもの)、「カムイチェブ」(神の魚)。重要な食べ物で、穫ったサケは捨てるところがない。頭、骨、ひれ、内臓などもミンチにすればすべて食べれる。食べるだけでなく、衣類や靴や生活道具に加工する。

 

サケの皮で作った靴 丈夫で長持ち

サケ漁はアイヌにとって生きること(宇梶静江)。千歳水族館のサーモンルームの展示をみれば、アイヌのサケ文化はリスペクト以外のなにものでもない。

 

アイヌのサケ漁 網を使わないで道具を工夫し、一匹ずつ大切に獲る。

アイヌと日本

日本人は実に多様な文化をつくってきた民族。中国文化を吸収してリミックス。北の国のアイヌの文化も吸収して仲良く交易できなかったのか? 

民族とは「文化や出自を共有することからくる親近感を核として歴史的に形成された、共通の帰属意識をもつ人々の集団。特に言語を共有することが重視され、宗教や生業形態が民族的な伝統となることも多い(広辞苑)」。

アイヌ民族は、同化政策により、文化、出自、言語、宗教、生業形態はすべて日本人が壊してしまった。もはやアイヌ語を話すアイヌはとても少ない。

 

狩りや漁もできなくなり、衣服も住まいも日本風になり、アイヌであることを明かさずに生きていくこと選んだアイヌが大多数。差別や偏見の目で見られるからだ。

アイヌはいるのに、「アイヌはいない。いるのはアイヌ系の人だけ。そのうち滅んでなくなる」。日本=単一民族史観の下で、アイヌの人たちから奪い続けてきた支配民族が平気でそんなことをいう。

2011年に政府がアイヌの血を受け継ぐ人々を北海道アイヌ協会会員が道外の親族を紹介する形で調査したが、アンケートを配布できたのは318人(150世帯)。生活実態は苦しい。日本人との大きな格差が存在する。年収300万未満が約80%(全国平均53%)。高校中退が12%(全国1%)。貧困の連鎖が続いている。kokiはアイヌについて書かれている本を読み漁ったが、国民国家というエゴを突き崩されそうな体験だった。

アイヌ民族には文字はなかったが、言語はアイヌ語という単一言語。広い大地に部族単位で住んでいたが、言葉は通じるので、コミュニケーションは取れて、共同体を超えて協力体制がとれる。広大な地域でも侵略者に対しては結束した戦いが可能だった。

文字を持たない、お金を持たないのは、必要がなかったからだ。生きていくために助け合う、シェアする社会。文字の代わりに口で伝える。それでもいつでも腹いっぱい食べれるのは、金がないと食べるのも不自由な現在よりはいいではないか? 現在はラーメン1杯やハンバーガーセットが時給賃金より高いし、家賃は少ない月給の半分以上。なんのために働いているのか?

 

エシカル(倫理的)な共存のアイヌ、アイヌをだまし(アイヌ勘定)て略奪しつくしたヤマト民族。どっちが野蛮?

蝦夷地(北海道)には共存の風習があり、侵略のために渡ったヤマト民族は到底、アイヌのエシカルな精神を理解できなかった。劣っていたのはどっち?「野蛮」なのはどっち? 

10匹の鮭を手に入れるときの和人の交易商人の「アイヌ勘定」という数の数え方、最初に「はじめ」といって1匹取り、1・2・3・4・5・6・7・8・9・10まで数えると、最後に「おわり」と言って1匹とる。合計12匹ゲットする。薄汚いね、ヤマト民族。それで「アイヌはバカ」と凌辱し略奪する恥知らず。

アイヌの共同体はお金のいらない世界。山や川の獲物は豊富で、自然の富には恵まれていた。自然(神)と人間が共に棲む大地は、所有者がない。土地を所有し耕す農耕民族は、人口と生産性を増大させ、「富」をつくりだしたが、稲をつくるために雑草を除去するように、選良以外の者は奴隷にされた。そんな社会の発展の道具は人を殺す武器である。

アイヌは山や川、原野、鳥獣や魚、草や樹木、あらゆる自然に精霊がいると信じている。文字がないので、ユーカラなどの口承文芸でアイヌの歴史をつないできた。文字もお金も必要ない。おおらかで、ゆとりの究極だね。

次もアイヌがテーマです。Kokiは理想郷であるアイヌの世界を壊した罪を江戸時代まで追及したい。和人との交易、和人との戦い。江戸幕府の直接支配がはじまるが、それでも同化しないで抵抗をつづけた人々。明治からのアイヌの過酷な時代に入る前に、クソ薄汚いヤマト民族がどのようにアイヌを翻弄してきたか?を書きたいと思います。(koki)

これまでの投稿は、以下でご覧になれます。

(Narashino gender1~41)

(Narashino gender42~)


 

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