写真はWikpediaの「隣組」からお借りしています。
先日、「隣組」について、上梓した。このときは、「ふむふむ」程度だったのだが、最近の「自治会・町内会にはいりたくない」というのは、原因はこの戦時下の「隣組」にあるのではないか、とワタシは想像したのだが。。。 そこで、もう少し、戦時下の「隣組」をみてみたいと思ったのだ。ワタシの父母はもう他界したが、戦時は体験しているが、父母のクチからは、「隣組」のハナシはあまり聞くことはなかった。
<参考サイト>
History日誌
このサイトはシロウトの歴史好きの方が書かれているサイトなのだが、「隣組」に関することが、わかりやすく、易しく書かれている。まずは、ここでアタマを慣らす(笑)
次に、
アジア歴史資料センター
公文書の見る戦時と戦後
アジ歴グロッサリー
ここで、おおきな、「町内会」の歴史的流れを把握できます。
そして、
三省堂ぶっくれっと
住民管理の細胞「隣組」その1
このあたりになると、「隣組」の戦時下における「効果」を学問的に見ていくことができる。要は、現代人が「隣組」にあった風習の延長を「自治会」「町内会」にそれとなく透過して見ているだろう部分だ。
この章の一節に、こんな表記がある。
「なにゆえ国家は、そうまでして、定期的に近所同士が集まることを重視したのか。その背景には、向こう三軒両隣りの付き合いさえしなかった「都会人」が隣同士で助けあうのは一つの進歩だが、「隣組一家」でなくてはならない、「これぞ皇國一家の単位であり、八紘一宇の具体化の第一歩である」という思想がある(鈴木・31頁)。戦前の支配体制の特徴の一つとして家族主義イデオロギーの強調があるが、隣組のレヴェルにもそれは貫徹していた。」
既に、戦時下のこの時代でも、「東京」という地区では「都会人」を気取り、向こう三軒両隣の付き合いを避けていたことがわかる。ナニもいまに始まった「自治会に入りたくない」「町内会に入りたくない」という「寝言」ではないのだ。
この時代ではいろいろな経済なり、配給制などの「統制」に「隣組」を利用していたのだが、「空襲」に備えた「防空」「非常災害の自衛団体としての隣組」、現代に置き換えれば、「防災」につながるところは参考になるだろう。これを見ていると、「「自治会名簿」をつくらない」などという発想自体がないことがわかる。
「自治会・町内会」について、戦時下の「隣組」について、少し考察を深めることができた。
とんとんとんからりと隣組
格子をあければ顔なじみ
まわしてちょうだい回覧板
知らせられたり知らせたり