翠邑日誌 

Suiyu’s Diary

 

榎本翠邑

 

元書法展会員、元太玄会会員、元瑞雲会評議員同人、

元全国書道師範連盟会員、

元東京書道教育会会員、英国ではブルネル大学ギャラリー、アルバートホール等

での展示、英国BBCテレビ「天皇」等があり、また「俳画」・「水墨」・

「書」・「花」等の書の担当での出版物があります。 

東京生まれ。

 


 

6月 百人一首 77 崇徳院

 

崇徳院 

 

77番 

 

瀬を早(はや)み 岩にせかるる

 滝川(たきがは)の

われても末(すゑ)に

 逢はむとぞ思ふ

 

せをはやみいわにせかるるたきがわの

われてもすえにあはむとぞおもう

 

©翠邑書

 

川の流れが早いから、

岩にせき止められた急流が

2つに分かれても、

またひとつになるみたいに、

愛しいあの人の中だって、

今は人にせき止められていたって、

いつかきっと一緒になれるよ。

 

流れの速い川が、岩で二つに分かれても、

またその先でつの流れに戻るように、

例え、今二人が別れても、いつかは

再び一緒になろうと思うのだ。

 

この歌は、崇徳院が1150年に

藤原俊成(しゅんぜい、定家の父)

に命じて編纂させた「久安百首」

に載せられた一首です。

 

山の中を激しく流れる川の水が、

岩に当たって堰き止められ、

岩の両側から2つに分かれて

流れ落ち、再びひとつにまとまる。

 

その様子を離ればなれになった恋人

への想いに重ねて詠う激しい一首です。

 

「障害を乗り越えても必ず逢おう」

という気持ちが込められており、

激しく燃えさかる情熱と、強烈な

決意のようなものが感じられます。

 

もちろんこの歌は恋の歌ですが

歌の作者である崇徳院は、

18年間位についたものの、当時の

鳥羽上皇に強引に譲位させられ、

さらに息子の重仁親王を天皇にと

願ったものの、やはり上皇の考えで

後白河天皇に位を奪われてしまいます。

 

上皇の死後、後白河天皇と、どちらの

皇子を天皇にするかを争ったのが

「保元の乱」でしたが、崇徳院 

はこの乱に敗れてしまいました。

 

このは崇徳院が強引に譲位させられ

た無念の想いを含めた崇徳院の一生を

綴ったような激しさを感じさせる歌です。

 

©japansuibokucentre

 

鳥羽天皇の第一皇子で、1123年に

5歳で天皇の位を譲り受けました。

 

18年の在位の後に近衛天皇

に譲位し、鳥羽上皇(本院)

に対し新院と呼ばれました。

 

鳥羽上皇の死後、後白河天皇

との間で、後の天皇にどちらの

皇子を立てるかで対立して戦と

なりますが破れ(保元の乱)、

讃岐(現在の香川県)に流され

46歳で没しました。

 

 

崇徳院

崇徳院(すとくいん)1119~1164

 

崇徳院は、実の父親である

鳥羽天皇から、鳥羽天皇自身が

亡くなった後までも敵対視された

一生を送った天皇でした。

鳥羽天皇が曽祖父の白河上皇

から嫁がされた璋子は、

元々白河上皇の女で、白河上皇は

待賢門院藤原 璋子(たまこ)璋子を

孫の鳥羽天皇に嫁がせたので

はないかと鳥羽天皇は

固く信じていたからです。

鳥羽天皇と璋子の間に生まれた

崇徳院は妻璋子と曽祖父白河上皇

との間の子ではないかという

噂があった為、鳥羽天皇は息子

である崇徳院を、一生涯「叔父子」

(おじご)と呼び、崇徳院の一生涯 

において愛情がないばかりか、

敵対視された一生でした。

 


©Wiki

『天子摂関御影』より「崇徳院」

藤原為信 画

崇徳院(すとくいん)は1119年に

生まれ鳥羽天皇の譲位により

満3歳7か月で即位しました。

 

摂政、藤原忠通の長女の藤原聖子

(皇嘉門院)が入内します。

 

この頃白河法皇が亡くなり、

鳥羽上皇が院政を開始しました。

 

1130年、聖子は中宮となり、

天皇と聖子との夫婦仲は良好

だったのですが子供は生まれず、

1140年女房、兵衛佐局が天皇の

第一皇子の重仁親王を産むと、

聖子と忠通は不快感を抱いたと

いうことが書かれています。

 

保元の乱で忠通が崇徳上皇

と重仁親王を敵視したのも

これが原因と察しされます。

 

一方、この件があった後も

崇徳上皇と聖子は保元の乱まで

常に一緒に行動しており、円満な

夫婦関係が続いたとみられています。

 

これからが、複雑な政権争いと

なるのですが、一貫して

鳥羽天皇の「いじめ」または 

「嫌がらせ」としか思えない

政権対策が行われていきます。

かなり複雑なのです。

 

©翠邑書

 

院政開始後の鳥羽上皇は

藤原得子(美福門院)

(ふじわら の とくし/なりこ

びふくもんいん)を寵愛して

1141年崇徳天皇に譲位を迫り、

鳥羽天皇の第九皇子得子所生の

躰仁親王(なりひと)、後の

近衛天皇を即位させました。

 

躰仁親王は崇徳上皇の中宮、

藤原聖子の養子となっており、

崇徳天皇とも養子関係にあったと

考えられるため、「皇太子」のはず

でしたが、譲位の宣命には「皇太弟」 

と記されてたと「愚管抄」や

「今鏡」に、書かれています。

 

崇徳上皇にとってこの譲位は

大きな問題となりました。

 

天皇が弟では将来の院政は

不可能だからでした。

 

崇徳上皇は鳥羽田中殿に移り、

新院と呼ばれるようになりました。

 

©翠邑書

 

しかし、この時は鳥羽天皇は

崇徳院に対して鷹揚な態度で

接し、崇徳院の第一皇子である

重仁親王を美福門院の

養子に迎えました。

 

これは近衛天皇が継嗣のない

まま崩御した場合には、重仁親王

への皇位継承の可能性がありました。

 

「本朝世紀」によると、近衛天皇

の朝覲行幸に際して、法皇は

美福門院とともに上皇を臨席

させ、上皇の后である聖子を

母親として天皇と同居させるなど

崇徳院を依然として、天皇の父母

もしくはそれに準じる存在と

位置づけており、近衛天皇が健在

だったこの時期においては、

崇徳院は鳥羽院政を支える存在

とみなされ、両者の対立はまだ

深刻な状況にはなかったのでは

ないかと思われています。

 

しかし、1155年病弱だった

近衛天皇が17歳で崩御すると、

後継天皇を決める王者議定が

開かれ、候補として重仁親王が

最有力でしたが、美福門院の

もう一人の養子である守仁親王、 

後の二条天皇が即位するまでの

中継ぎとして、その父の雅仁親王、

後の後白河天皇が立太子しないまま

29歳で即位することになりました。

 

©japansuibokucentre

 

鳥羽法皇や美福門院は、崇徳上皇

に近い藤原頼長の呪詛により

近衛天皇が死んだと信じていた

といい、この背景には崇徳院政

によって自身が妨げられることを

危惧する美福門院の父、

藤原忠実と弟の頼長との対立で

苦境に陥り、崇徳上皇を良く思わない

藤原忠通、雅仁親王の乳母の夫で

権力の掌握を目指す信西らの策謀が

あったと推測されています。

 

また、守仁親王が直ちに即位

した場合、その成人前に鳥羽法皇

が崩御した場合には唯一の院になる

崇徳上皇が君主となれる可能性

がありましたが、父親でかつ成人

している雅仁親王が即位したことで

崇徳院が、院政を継ぐ望みも可能性も

完全に閉ざされてしまいました。


続き

 

ではまた、ごきげんよう。

 

ありがとうございました。

 

音譜音譜音譜音譜音譜ドンッドンッドンッ音譜音譜音譜音譜

 

ごこれからもよろしくお願い申し上げます。

「Suiyu's Diary 翠邑日誌」の過去ブログはこちらから

https://japansuiboku.up.seesaa.net/image/2.png

お便りはこちらまで 上田トミ 

japansumie21@gmail.com

 

ここに掲載されております作品、イラスト、

写真などは無断で

使用できませんのでご注意ください。

 

榎本翠邑 動画

動画はこちら

http://www.youtube.com/watch?v=XanIYY7Q-cM&feature=em-upload_owner#action=share

 

http://www.youtube.com/watch?v=R2Mw3u3-DAs

 

翠邑が書いています。

 

 

書籍の購買は

 

Nature in Art Museum and Art Gallery

 

ネイチャー・イン・アート・ミュージアム&ギャラリー

https://natureinart.org.uk

 
翠邑が書いています。

 

翠邑書 

Haiga Illustrated HAIKU Poems by Yukki Yaura

 

SHO: Japanese Calligraphy   ISBN    0-9538692-3-7

俳句 英語版

How to Write Japanese Calligraphy -  by Yukki Yaura
 

 

 

eBookの購買 

 

 

6ポンド Paypal

こちらまで

suekichibook@gmail.com

 

 

ありがとうございました。

 

ドンッドンッドンッ音譜音譜音譜アップ音譜音譜音譜ドンッドンッドンッ