〝江副文法とろう児の日本語教育〟

「江副文法」(えぞえぶんぽう)をご存知だろうか。

聴覚障害児教育に携わる者なら聞いたことがあるかもしれない。

新宿にある、外国人を対象にした日本語学校で実践されている指導法である。
http://www.sng.ac.jp/japanese/ezoemethod.html

日本語は複雑な言語であり、その修得は難しいとされている。
特に難しいのが、助詞の使い方である。
助詞の使い方を可視化することで日本語のマスターを容易にするという指導法である。

この指導法がどこかのろう学校教員の目に留まり、聴覚障害児の日本語指導にも使えるということで導入し、普及しつつある。

この「江副文法」で実際に指導している新宿日本語学校の校長先生(江副隆秀先生)から講演を聴かせていただく機会があり、それに参加した。
講演を聴いて感じたことを書き連ねていきたい。

その前に2つ留意しておいてほしいことがある。

一つ目。ここから書かれている内容はかなりひねくれているかもしれない。
だが、ひねくれた見方というのも時には必要である。というのも、ひねくれた見方をすることによって、新たな知見の可能性が開かれるからだ。
「ひねくれているなぁ」と思われる箇所があるかもしれないが、ご容赦ください。

二つ目。
私は研究者でも学者でもない。
だから、「何となくそんな気がする」という視点で書いていく。
研究者であれば、それなりに実践を積み重ね、それを理論化するのがお仕事であるが、私はそこまでの身分ではないし、従って書いた内容には責任を持てない。
はっきりした結論を出すことも出来ないので、「異議申し立て」の形式でまとめる。
それに対する解答を探すのは、私を含め、聴覚障害児教育関係者の仕事だろう。
なので、これは「フミが何となく思ったこと」という内容と思って読んでいただけたらと思う。

もちろん、書かれた内容について何かご指摘があれば喜んで受けたいと思う。

護身のための前置きが長くなった。本題に入ろう。


今回の講演を聞く前から、「江副文法」という指導法については聞いたことがあった。
具体的な内容は知らなかったが、「文法を可視化して指導する方法」という大まかなイメージは掴んでいた。
そして、同時に「この指導法は聴覚障害児にはするべきではない」というセンサーも働いていた。

さて、待ちに待った講演…。

確かに、文法を可視化するという点ではユニークな発想だと思った。
先述した通り、日本語は複雑な言語であり、英語のように決まりきった文型というのがあまりない。
良く言えば、柔軟な言語でもある。
その柔軟さ故に、外国人にとっては習得しづらい言語でもあるのだ。

「外国人にとって習得しづらい言語」であるのにはもう一つ理由がある。
それは、日本語の文法を英語で説明できないことがある、ということ。
例えば、「は」と「が」が英語だと同じになる。
しかし、日本語では微妙にニュアンスが異なる。(私もうまく説明できない。)
「私が行く」と「私は行く」は一見、同じようで微妙に意味が違う。
英語だと、「I go」である。
この「は」と「が」の違いを英語で説明するのは難しいとされている。

こういった日本語習得においてぶつかる壁を解決するのが「江副文法」である。
文章で説明するのは難しいので、HPも参照にしていただきたい。

矢印の形をしたカードを使ったり、品詞ごとに色分けしたカードを使ったりして文法の構造を視覚的に分かりやすくすることで、日本語の文法のイメージをつかませることができる。
可視化することによって、外国人にも日本語のイメージをつかむことができ、習得が容易になるとのこと。
この方法は聞こえない子に対しても有効だとして、取り入れているろう学校もある。
だが、果たして本当に聞こえない子に対して有効なのだろうか。

外国人にとって、日本語は「第二言語」である。
つまり、ベースである「母国語」を基に日本語を学ぶわけだ。
しかし、聞こえない子どもにとって、日本語は「母国語」でなければならないはずだ。書記日本語にしても。
この江副文法という指導法は、日本語が外国人にとっての「第二言語習得」だからこそ可能である指導法ではないか。
「母国語として」なのか「第二言語として」なのか。その境界をはっきりしていないと道を誤る。
両者をごちゃまぜにしてはいけない。

江副先生はこうおっしゃった。
「外国人に日本語を教えるのと、聞こえない人に日本語を教えるのは似ている」と。

この言葉には多くのろう学校教員が賛同の意を示すだろう。
私もその点については否定しない。
しかし、私は思う。「聞こえない子どもへの日本語指導を外国人への日本語指導と似せてはならない」と。

ある言語を「母国語」として習得する場合と、「第二言語」として習得する場合とでは大きく異なる。脳の仕組みから見てもそうだという報告がある。

※言語と脳の関係を知りたい方は下記の書籍を一読することをお勧めします。
・鈴木孝明・白畑知彦、『ことばの習得』、くろしお出版、2012年
・酒井邦嘉、『言語の脳科学』、中公新書、2002年

外国人は、「母国語」という基盤があるからこそ、「第二言語」習得に進むことが出来る。
聞こえない子どもは「母国語」である日本語の基盤がしっかりしていない。それなのに、「第二言語」として指導するのは危険なのではないか。

失礼を承知のうえで述べさせていただく。
わざわざ日本にやってきて、日本語という複雑な言語を学ぼうというわけだから、もしかしたら日本語を学んでいる外国人は頭が良いのかもしれない。
いくら視覚的に分かりやすくなったとしても、それを自分のものとして定着するためには自分の頭で考えて理解するしかない。
しかし、日本語を学ぶ聞こえない子どもが全員、飲み込みの早い子どもだとは限らない。
日本語の指導は早いうちに行なった方がよいと言われており、実際に日本語の指導は幼少期から始まるわけだが、この江副文法による説明を幼い子どもが理解できるとは到底思えない。
もちろん、視覚的に分かりやすくするという点では必要だが、いずれはそういうものに頼らずに自然に言語運用ができるようになってほしいものである。

さらに突っ込んで言うと、日本語文法の可視化は聞こえない子どもにとって効率の悪い思考回路を埋め込むことになるのではないか、という印象を私は拭いきれなかった。
多くの(聞こえる)日本人は当たり前すぎて分かりにくいかもしれないが、正しい助詞(文法)の使い方は〝感覚〟で身につけているはずである。
いちいち文法の意味を確認しなくても、正しい用法で言葉を発すること、書くことが出来る。
それが出来るからこそ、「日本語は母国語である」といえるのだ。

江副文法で学んだ聞こえない子どもは、助詞を使用する場面に直面する度に「立ち止まら」なければならない。
「この場面では『が』がふさわしいよな」「こういう文章は『に』を入れたら良いよな」
というように江副文法によるイメージを思い浮かべながら言葉を発しているようでは、日本語運用者として効率の悪い作業であるように思う。
理屈で考えながら機械的に処理していくようになってしまえば、同じ日本人でありながら、もはや日本人ではないという状況に陥る。
脳の仕組みはよく分からないが、そんな気がするのである。
聞こえる聞こえないに関係なく、日本人である以上、日本人としての自然な言語運用ができることが望ましいのではないだろうか。
外国人への日本語指導を部分的に取り入れるのは必要かもしれないが、全面的に受け入れるのには違和感がある。

聴覚障害者を日本人たらしめるための鍵は、〝身体〟にあると私は考えている。
理論っぽくいうと、文法を体系的・理論的に指導するのではなく、日本語を〝身体化〟させることが肝心である。

あなたは日本語を思考しながら運用しているだろうか。
あなたは言葉をどこから引っ張りだしているだろうか。

それを考えれば、自ずと私の言いたいことも伝わるのではないか。
え、伝わらない?ごめんなさい。この〝身体〟というキーワードについてはまた機会があれば書きたいと思う。

聞こえない子どもに日本語を教えるというのは、簡単なようで実はとても難しい。
効率的な日本語指導法も聴覚障害児教育の世界では、まだ確立していないと思う。
江副文法ももちろん良い面はある。
が、完璧ではないということは肝に銘じておく必要があるだろう。

一つの方法に満足するのではなく、あらゆる方法の良い面、悪い面を掛け合わせて良い方法を探究していくのがろう学校教員の使命だと私は思う。

最後に一言…。

「聴覚障害者も〝日本人〟である」ということを忘れてはならないだろう。