ビーチボーイズの失われた60年代の宝物が第二の人生を得た訳 | 鳥肌音楽 Chicken Skin Music

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一昨年に発売50周年ということでビーチ・ボーイズの『スマイリー・スマイル』『ワイルドハニー』のアウト・テイクやレア・トラックをまとめたCD『1967 – Sunshine Tomorrow』が発表され、昨年は68年発売の『フレンズ』と『20/20』の記念盤が出るのだろうなぁと待っていたのですが一向に出る気配がなく、発売は無しか、つまんねぇなぁと思っていました。しかし、よくよく調べてみると昨年末Spotifyなどのストリーミングで『1968-Wake the World: The Friends Sessions』と『1968-I Can Hear Music: The 20/20 Sessions』と『The Beach Boys On Tour: 1968』いう3種類のアルバム(?)がひっそりと発表されていました。

デジタルでのストレイト・イシューのみでCDやアナログなどのフィジカルでの発売は無しということのようです。分厚い解説や写真集、箱なんかがなくて安価で楽しめるのは嬉しいのですが、ちょっと寂しい気もします。少なくとも曲ごとの参加ミュージシャンなどの録音データくらいは欲しい気もするのですが・・・・。

今回なぜデジタルのみの発売であったかを含め長年ビーチボーイズの元で働いているマーク・リネットとアラン・ボイドへのインタビューがローリングストーン誌のサイトにアップされていましたので抄訳してみました。



ローリングストーン誌(以下RS):この音源を今、デジタルのみでリリースするというやり方に影響を及ぼしたのは何なのでしょう?

マーク・リネット(Mark Linett、以下ML):英国とEUにおける録音物の50年という著作権保護期間が大きいです。2013年に著作権法の一部は修正され、20年という保護期間が追加されました。しかし公表されなければ適用されないという規定があります。未発表の音源について基本的に創作されてから50年以内に正式にリリースされなければ著作権保護の対象とならないのです。この規定が最初に行使されたのは2012年だったと思います。そしてビートルズが最初に録音した音源がパブリック・ドメインになってしまいました。同じことがビーチ・ボーイズでも起こりました、『サーフィン・サファリ』のアルバムは遡って著作権登録ができなかったために現在パブリック・ドメインとなっています。アーカイヴ内の膨大な音源がブートレグ化されてしまいました。

アラン・ボイド(Alan Boyd、以下AB):かつてはバンドにとって脅威をもたらしたブートレグの存在が、今ではすべての音源を合法的にリリースすることを促したのは皮肉なことです。 これはビーチ・ボーイズのファンにとっては恩恵です。 実社会における市場性の問題は、おそらく問題なくなるでしょう。

RS:これらの音源の一部は『アンサーパスド・マスターズ』シリーズや他のブートレグで入手可能ですよね?

ML:そうだね。でもやり方が違うんだ、あれは言ってみればとっちらかっているんだ。

AB:どんな音源が世に出ているのかを見極めるのは大変なことです。私も知らないものがスーパーファンの手中にあるかもしれません。別に驚くことでもありません。70年代後半か80年代初めに誰かがテープの保管庫に侵入したからね。実際、私たちは最近になってその時に盗まれたテープを買い戻しています。

ML:ほとんどは誰かがミックスしたものやコピーされたものでした。でも文字通り扉の向こうから出てきたようなものもあった。10年か15年前、ある人がテープがいっぱいにつまった箱を持って現れた、私たちはそれらのうちのいくつかに見覚えがあった。おそらく80年代初めに、誰かに盗まれたもので、他のアーチストのものと一緒くたになっていたけど、ビーチ・ボーイズのテープは魅力的だった。その山の中には私たちの知らないものもあったんだ。元々の外箱は捨てられていたけどね。

RS:すごいね。私はルー・リードとヴェルヴェットアンダーグラウンドについての本を書いています。残念だけどこんなすごい量のアーカイヴが発見されることありません。

ML:1stアルバム発売後にマスターのコントロール権をビーチボーイズが手にしていたことが大きいね。契約条項に入っていたんだ。マルチ・トラックのテープをキャピトルに預けるのではなくて・・・その、ほとんどを録音したスタジオに置いたままにしていました。誰かがそのテープを探しだして倉庫に保管するという仕事を与えられる1978年まで、放置されていたんだ。レコード・レーベルの典型的な過程は最終的なミックスがダビングされセッション・マスターを保管することです。サブマスターは全てゴミ箱に捨てられます。そうしないとレーベルは全てを保管するために100平方ブロックが必要となります。そして、当然のごとく将来的に価値があるものになるとは考えていなかったんです。ファイルの中には一つのアルバムしか無く3トラックの最終マスターだけが残されています、アウトテイクは全て消去されます。

AB:『サーファー・ガール』がそうでした。

ML:そうさ!でもその後はビーチ・ボーイズが録音したものの80~90%生き残ってると言えます。だからこそ、このようなこと(『フレンズ』『20/20』のアウト・テイク集)や『ペット・サウンズ』や『スマイル』のボックスが可能になった、私たちがセッションのアウト・テイクを全て持っているからなんです。これって普通はありえないことです。



RS:もともと、これらのセッション(『フレンズ』と『20/20』)にブライアンはどの程度関与していたのでしょう?

AB:『フレンズ』には深くかかわっていました、基本的に主導権は彼にありました。ボーイズがツアーに出た後、アルバムを完成さえさせました。『ペット・サウンズ』と『スマイリー・スマイル』の発売の間に長期間を要しすぎていることでキャピトルとの契約に反していましたから。彼らはさらに遅れを取り戻さねばなりませんでした。68年の春までにアルバムが必要だったんです。『20/20』でも同じでした、ヨーロッパへツアーに出る前にキャピトルに渡すために大慌てでアルバムを仕上げました。でもブライアンは『フレンズ』に深く打ち込んでいました。ほとんどをプロデュースしたのです。

ML:デニスの「リトル・バード」のように私たちが多分、共同プロデュースされたと思っている楽曲でさえ、まだブライアンがプロデュースしていたのです。以前のグループのレコーディングと全く変わりはありませんでした。例外があるならば『ワイルドハニー』と『スマイリー・スマイル』とは対照的に、ベーシック・トラックにたくさんのセッションプレイヤーが参加していたことです。

RS:セッションはどこでレコーディングされましたか?

ML:あらゆる場所で。多くはIDサウンドで行われました。元々はリバティ・レコードのスタジオだった所です。建物とスタジオは今でも存在しますが、もうIDとは呼ばれていません。ラブレア通りにあります。

AB:それにブライアンの自宅でもモービル・ユニットを使って沢山録音されたと思うよ、特に『ワイルド・ハニー』についてはね。

RS:あなたから見て、今回のセットで際立ってると思われるところは何ですか?

ML:うーん、それは2つの観点から見るべきだね。ひとつはリリースされた曲のいくつかを詳細に分析することができること。私はビーチボーイズのレコーディングにいつだって興味を持っているんだ。演奏とボーカルが織り交ぜられたものを分解できる時、バック・トラックを聴いて、「リトル・バード」だと言い、そして次にアカペラを聴く、それは本当に興味深いし参考になります。アルバムの他の曲も同じです。つまり、全ての楽曲についてそうやって私たちの装置で試してみたという事です。それから未発表のものもすべて入れています。

RS:実際にすべてのアカペラは素晴らしいですね、ボーカルだけを取り出して聴けるのは素晴らしいことです。

AB:「リトル・バード」ではいくつかのボーカル・パートにジャズ・タイプのコード進行があります。それは、おそらくはブライアンがティーンの時にフォー・フレッシュメンのとてもジャズっぽくて瑞々しいクローズ・ハーモニーを分析していたことに遡れるとでしょう。ボーカルの中には私を打ちのめすものもありました。とても正確なうえにうまくブレンドされています。アカペラの「リトル・バード」を聴いて私の息は止まりました。すごく美しい。

RS:セッションにはいくつかのカバーがありますね。「ウォーク・オン・バイ」を聴くとバート・バカラックのコードが他の楽曲にも影響していることが分かります。

ML:ああ。彼は確かにブライアンに大きな影響を与えている。

AB:ブライアンもブラジルの歌手の影響も受けていると思います。私たちは「イーヴン・タイム」という曲を見つけました、「ビジー・ドゥーイン・ナッシン」の初期バージョンです。

ML:ボサノバなんです。ブライアンはある時点で演奏のスピードが速いと気づきました。それでスピードを落としてボーカルを録り直しました。

RS:「ダイアモンド・ヘッド」には美しいハワイアン・スライド・ギターが聴けますね。「ザ・ゴング」の物語は何ですか?話ているのは全てデニスですよね?

ML:ああ、全てデニスです。「ザ・ゴング」は元々は『20/20』バージョンの「ネバー・ラーン・ノット・トゥ・ラヴ」のイントロとして発表されました。最初の部分が付け加えられました、セッションの残りの部分はデニスのお遊びです。

RS:彼の話言葉は全て非常にトリップしていますね。

ML:そうですね、1968年ですから。それを忘れちゃいけない。

RS:そして「ネバー・ラーン・ノット・トゥ・ラヴ」には奇妙な裏話がある。

ML:うーん、そうだね・・・。夏の間、デニスの家に滞在していた仲間たちが関わっている。

RS:チャールズ・マンソン。

AB:避けては通れないですね。だけどあんまり触れない方がいいと思います。それは消すことのできない歴史です。

RS:そうですね。このレコードにはビーチ・ボーイズ以外の声がたくさん入っています。「イズ・イット・トゥルー・ホワッツ・デイ・セイ・アバウト・デキシー?」にはオードリー・ウィルソンが登場します。

MK:それは私たちが発見したのですが、どうやらある午後にホーム・スタジオで録音されたようです。ブライアンは母親に歌わせています。とても甘い声ですよね。

RS:「オー・イエー」についてはどうですか?

ML:私の思うところビーチ・ボーイズはツアーに出ていました。ちょうどニューヨークのフィルモア・イースト公演の時だったと思いますが、ニューアルバムを完成させなければならない狂乱の時だったので、あらゆる場所でテープを回していました。ニューヨークのキャピトル・スタジオで仕事をしていた時のこと、メンバーの一人が路上でラップのようなものをやっている少年を見つけ、こう考えました「いいじゃないか、テープに録ろう」。 彼らはスタジオに彼を連れて行き、マイクの周りにみんなを集め、そして彼にそれをやらせました。 テープの箱に書かれているのは、「Oh,Yeah」だけで、少年の名前もありません。

RS:ライヴ音源もありますね。そのうちいくつかは発表済みですよね?

ML:それとは違うよ。2種類はロンドンのパラディアムの公演とフィンズベリーパークでのファースト・ステージ。セカンド・ステージは『ライヴ・イン・ロンドン』として発表されている・・・。ライヴ・アルバム用に録音したものじゃなかった。音質は本当に良かったんです。手許に残っていたのは本当に素晴らしいことでした。正直言って69年、70年のライヴ・レコーディングはそれほど多くなかったからです。

AB:1969年の物は残ってないと思います。

RS:近い将来どのようなアーカイヴが出てくるのでしょう?テープ・デッキには何か残っていますか?

ML:そうですね、私たちは彼らのレーベルであるブラザー・レコードでの最初のアルバムに焦点をしぼった企画をやりたいと思っています。彼らは1969年に楽曲を録音し始めました。いくつかは『サンフラワー』の中で聴けます。そのうちのいくつかは発表されることのなかったキャピトル最後のアルバムのために意図されていました。知っての通りその年に発表されたシングルの「ブレイク・アウェイ」もそのひとつです。次のラウンドの計画として私たちはレーベルと話し合いを始めるところです。

ローリングストーン誌の元記事へのリンク→How the Beach Boys’ Lost Late-Sixties Gems Got a Second Life