バリー・ベケット特集 その3 | 鳥肌音楽 Chicken Skin Music

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1日あいてしまいましたがバリー・ベケット特集第3弾。

まずは当時米国ですごい人気だったボブ・シーガー。バリーは72年の『バック・イン’72』から82年の『ディスタンス』まで6枚のアルバムに参加しています。ほぼ準レギュラーと言う活躍ぶりです。

Bob Seger/ We've got tonight 1978


個人的にはボブ・シーガーっていまいち苦手です。『ナイト・ムーヴス』やアップした曲の入った『見知らぬ街』の頃は日本でもかなりヒットしていてラジオでもガンガンかかっていたのですが印象が薄いんですよね。なんかパチもんくさいというか・・・誰のパチもんかって言われても困るんですが。

シーガーと違い次の人は大好きです。バンドを卒業したレヴォン・ヘルム。1stソロではスタックスのハウス・バンドであったMG’sを中心のリズム隊を使い2枚目ではマッスル・ショールズ、いかにも自分は南部の顔役だって自信を感じてしまいます。

Levon Helm / Take Me To The River 1978


レヴォンとは関係ない話ですが、79年に京都で暮らすようになった時にとにかく田舎では体験できなかった外タレのコンサートを観たいと何の予備知識もなく京大西部講堂で行われたトーキング・ヘッズのライヴを見に行きました。最初がトーキング・ヘッズしかも西部講堂、今思うとよく行ったなぁ。ステージのほうに詰め寄せぴょんぴょん飛び跳ねてるお客に最初は後ろの方で戸惑いがちに観ていたのですが、素晴らしいライヴで最後は一緒にぴょんぴょんしていました。で、アンコールで歌われたのが「テイク・ミー・トゥ・ザ・リバー」でなんでパンク(と思ってました)のバンドがレヴォンがやってた曲をやるんやと不思議に思ったことを思い出してしまいました。

前々回も書きましたが78年にスタジオを引っ越してからはスワンパーズというよりは個人でセッションに参加していくことが多くなります。またジェリー・ウィクスラーと組んでプロデュースを行うというパターンも目立ちます。ジェリーがメンバーやスタジオをセッティングしバリーが音楽監督をするという感じだったのかなと想像します。

京都の下宿のラジオから聴こえてきた時にボブ・ディランがJ.J.ケールをバックに歌っていると思った「悲しきサルタン」という大ヒットのおかげで業界で最も注目される存在になっていたダイアーストレイツ。2枚目のアルバムを1枚目以上に大成功させようとワーナーはジェリー・ウィクスラーとバリー・ベケットを共同プロデューサーにたて『コミュニケ』を作り上げます。

コチラで試聴できます→●Dire Straits / Lady Writter 1979

そしてこのプロデュースが非常に興味深い共演を生みだすことになります。ジェリーとバリーがプロデュースすることとなったボブ・ディラン新しいアルバムのギタリストとしてダイアー・ストレイツのマーク・ノプラーが招かれたのです。

Bob Dylan / Slow train coming 1979


ディランのアルバムでマーク・ノプラーがギターを弾く、これはディラン&ザ・バンドのような素晴らしいアルバムが出来るのではないかとかなり期待をしてLPを買いました。ところがなんかもっさい音やなぁと思ってあんまり聴きこむことしませんでした。マーク・ノプラーももっと暴れて欲しかったのになぁ、というのが当時の印象で解説に書かれていたディランのキリスト教への帰依(ジャケの線路工夫が持ってるつるはしが十字架に見えるとかね)のせいでこうなっちゃったんだろうなぁとがっくり来ていました。実際いまだにCDも持っていない状態できちんと聴きなおさなきゃと思いながらズルズルきてしまっています。アップした「スロウ・トレイン・カミング」なんかも今聴くといい歌ですもんね。

84年にはイーグルス解散後の初ソロがいまいちパッとしなかったグレン・フライの2ndアルバムをプロデュース。シングル「セクシー・ガール」もTOP20ヒットとなりアルバムももう少しでTOP20というヒットと前作よりは成功をおさめます。

Glen Frey-Sexy Girl 1982


80年代に入りウィリー・ネルソンやジェリー・ジェフ・ウォーカー、デルバート・マクリントン、オークリッジ・ボーイズなどカントリー系の人たちとのセッションが増えてきていましたが85年にはマッスル・ショールズを離れナッシュヴィルでワーナー・ブラザースのA&Rとして働くようになり、主な活動の舞台をカントリー界にシフトします。

そして出逢ったのがハンク・ウィリアムスJr、彼の86年のアルバム『モンタナ・カフェ』をプロデュースし見事にカントリー・チャートで1位を獲得します。

HANK WILLIAMS JR / COUNTRY STATE OF MIND 1986


この成功のおかげかその後レストレス・ハートやアラバマ、デルバート・マクリントン、ジェリー・ジェフ、ヴィンス・ギルなど数多くのアーチストを手掛けるカントリー界の大物プロデューサーとなっていたようです。残念ながら80年代以降カントリーを無視しつづけた日本の音楽ジャーナリズムではバリーの存在は一切無視されていたのが今思うと残念なことです。

最後にジョン・レノンにハーモニカを教えた男として記憶されるデルバートマクリントンの81年の全米8位の陽気なナンバーを聴きながらバリーベケットを見送りたいと思います。ありがとうバリー。

Delbert McClinton /Giving It Up for Your Love 1980


しかし「君にギブ・アップ」っていう邦題はなぁ・・・・