「家族の自由について」


人生に困った時、辛い時は本を読みなさい。

「本の中に答えがある」私は、小さい頃からそう思って生きてきた。

そんな中「家族の自由について」を読んで、また一つ「答え」や「救い」に近い何かに触れた気がした。


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 「パパ」「おばちゃん」「ママ」この三つの呼び方に隠された気持ち。

4歳の彼は、きっと今も心の中で生きていて、それが当たり前であるとか、当たり前でないとか、そんなことは考えてもいない、

ただ「家族の在り方」を、淡々と自分の中で解釈する為に「大人」になっていったのだと感じた。

4歳の彼を想像すると、胸にこみ上げる何かが、自分と少し重なって、簡単には、言葉にできない気持ちになった。


それと同時に、反対側にいる「おばちゃん」の気持ちにもなっていた。

これは女性だからなのか、「いい子にしていたらいいよ」と言う言葉は、どんな気持ちで言ったのか。

その時「自分にとって」ではなく「この子に対して」どう言ってあげることが、「この子」ではなく「息子・娘」となる二人に愛を伝えられるのか。

間違いなくもう二人の息子と娘をちゃんと愛している「おばちゃん」は、この日どんな言葉を伝えれば良かったのだろうと、正解もない言葉を今もずっと探しているんじゃないかと。


今年30歳になる私は、小さい頃に両親が別離している。

生まれてすぐに母親と母親の彼の元に引き取られ、父と姉と、育ての親である「ちぃばぁちゃん」と言うお婆ちゃんと離れて暮らしていた。

私が小学一年生の頃、母親に子供ができて、私は父と姉とちぃばぁちゃんの元へと戻ることになったが、その頃から「家族の在り方」をいつも考えていた様に思う。

決して母親が悪いなんてことは思わない。

母親も胸を痛めていないわけがないからだ。幸せでいてほしいと思うのは、きれいごとではなく、それが最悪みんなの幸せであるからだ。


実際わたしも、「パパ」「かぁちゃん(母親)」「ちぃばぁちゃん」お姉ちゃんのことも「あやぱちゃん(アヤハと言う名前)」と呼んでいるところも、この文章に近いものを感じる。


この呼び方には本当はとても深い意味があって、ただそれを自分自身がうまく咀嚼できないまま大人になり、「現実」他にもきっと「家族」に対して、色んな愛を持っている人がいる、それは「形」ではなく「気持ち」の中にしかないと言うことを、誰かにちゃんと伝えるというよりかは、自分を通して、自分の気持ちを通して、大げさだけど、誰かを救ったり、励ましたりしたいと思う様になったことを、

この文章を読んで、4歳の彼が伝えたかった言葉を、そっと噛み締めるような、救われたような気持ちになっていた。


きっと、ただ誰かとの距離にすごく繊細で「愛されたくて」「嫌われたくなくて」サービスを覚えてしまう子供もいる。

それは悪い意味だけではない。大人になってしまえば、それは誰のせいでもないのだと気づく。

だからこそ、人は孤独である、「絶対」や「完璧」と言ったものはない。「家族」もそれと同じなのだ。


人はみんな孤独で、だけどいつも誰かの為に生きている。


自分が彼の母親なら、「ありがとう。そうだよね。」と全部を肯定し、抱きしめてあげたいとも思った。