仮にだ、「日本共産党」の甘言に惹かれて支持をしようと考えるなら、日本共産党の歴史を学ぶべきだろう。

 

それから判断をしても決して遅くはないからだ。

 

 

朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)北朝鮮を支持する在日団体として、何かと話題になることが多いが、かつての日本共産党との深い関わりを知る人は少ない。

 

日本革命を共に目指した在日朝鮮人のコミュニストの多くが、総連結成に参加したのである。

 

「日本共産党史」から消された共産党と在日朝鮮人の関係

 

 

今では党史のどこにも書かれておらず、すっかり忘れ去られているが、実は日本共産党は戦前から戦後にかけて、在日朝鮮人と共に歩み、大いに助けられた。

 

1922年(大正11年)の創立時から、共産党は植民地解放の方針に基づき、朝鮮の独立を綱領に掲げた。

コミンテルン(共産主義インターナショナル)の方針で、1930年代以降、日本在住の朝鮮人共産主義者は、日本共産党に所属した。

ちょうど在米中の片山潜がアメリカ共産党に所属し、在仏中のホー・チミンや●小平(●=トウ=登にオオザト)がフランス共産党に入党したのと同じである。

戦前から、日本共産党のもとに多くの在日朝鮮人が集っていた。

 

例えば、共産党系の労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931年(昭和6年)ごろ、組合員数は3万人だったが、うち3割を朝鮮人が占めていた。

 

945年(昭和20年)、敗戦の年の10月、徳田球一ら共産党幹部が、府中刑務所を出獄した。その際、<歓迎 出獄戦士 万歳>の幔幕を掲げ、熱狂的に出迎えたのは、数多くの朝鮮人だった。その後、催された歓迎大会の会場を設営したのもまた朝鮮人党員である。彼らが待ちわびていたのは、獄中15年の不屈の闘士、金天海であった。金天海は在日朝鮮人から圧倒的な支持を集めていた。

その年の11月、共産党は再建の第一歩として、第4回党大会を準備するため、全国協議会を開催する。

全国から300人の代議員が東京・代々木の本部に集まり、行動綱領草案、規約草案、日本共産党の当面の政策を採択した。

さらに、一ヶ月以内に第4回党大会を開催することも決定する。

その準備委員に選任されたのが、徳田球一、志賀義雄、袴田里見、金天海、宮本顕治、黒木重徳、神山茂夫の7人だった。

この名簿順位は、当時の党内ランクを示している。

 

会議では、金天海を責任者として、朝鮮人部を設置することも決めた。実は、日本共産党の再建資金のほとんどは、当時の在日組織である朝連(在日本朝鮮人連盟)が提供している。このことは、党史には一行も触れられていない。金天海は、同年12月1日に開かれた共産党第4回党大会で、7人の中央委員、5人の政治局員の一人となった。この党大会では中央委員候補に、同じ在日の宋性徹も選ばれている。

翌46年(昭和21年)2月の第5回党大会では、同じく在日の金斗鎔、朴恩哲、保坂浩明(李浩明)も中央委員候補となり、後に遠坂寛(崔斗煥)も加えられた。第5回党大会当時の党員数はおよそ6000人。うち約1000人が朝鮮人だったという。一大勢力であった。

金天海は、1898年(明治31年)、慶尚南道蔚山生まれ。

本名を金鶴儀といった。1920年(大正9年)、仏教の勉強のために来日。

日本大学社会科に入学したものの中退し、運動に身を投じた。

活動家としてすぐに頭角を現し、1920年代には、早くも在日朝鮮労働総同盟(在日労総)委員長に就任。

朝鮮共産党日本総局責任秘書も歴任する。

責任秘書とは、今でいえば総書記とか書記長ということで、実質的な組織の責任者であった。人情家で在日朝鮮人の間では信望が厚かった。

 

1949年(昭和24年)、朝連が強制的に解散させられる際、金天海は公職追放を受け、北朝鮮へ密出国する。

北朝鮮では朝鮮労働党中央委員、社会部長、祖国統一民主主義戦線議長、最高人民会議常任委員を務めるなど、要職にあった。

 

金天海が、戦後再建時の日本共産党で、5人の政治局員の一人であったことをみても、在日団体に対する共産党の影響力が大きかった、というよりもむしろ、日本共産党における朝鮮人の役割がいかに大きかったかがわかる。共産党が、在日団体である朝連などへの指導をぶれることなく続けられたのは、「朝鮮フラクション(支部)」を設置していたからだった。

この組織は1947年(昭和22年)1月26日、金天海のもとで、責任者に「朝鮮民衆新聞」を創刊した朴興奎、後に朝鮮総連初代議長となる韓徳銖ら6名の委員と、4名の委員候補からなっていた。

敗戦直後から、在日朝鮮人の間で、子弟に対する民族教育をしたいという要求が高まっており、在日団体が自然発生的に各地につくられた。

それらをまとめ、相互扶助的な団体として、<全日本に在留する240万同胞の生命と財産を保護し、あらゆる権利を主張すべき唯一の代表機関>を宣言して、1945年10月15日に結成されたのが、朝連、在日本朝鮮人連盟であった。

 

1949年(昭和24年)3月27日、朝連は他団体とともに大阪の扇町公園で、吉田内閣打倒人民大会を開催する。

大会後、デモ隊と警察官が衝突し、重軽傷者は16人にのぼった。

同年6月11日には、朝連の参加する公安条例反対共闘委員会が、皇居前広場におよそ5万人もの参加者を集めて大規模集会を開催する。

 

共産党の軍事方針のもとで、いくつもの騒乱事件が起きた。1952年(昭和27年)の5月1日、第23回メーデーで、デモ隊と警官隊とが衝突したいわゆる“血のメーデー事件”がある。戦後、皇居前広場は“人民広場”と呼ばれ、たびたび集会場として使われてきたが、その日、政府は使用禁止とした。だが、メーデー参加者たちは広場に突入。在日朝鮮人はデモ隊の先頭で警官隊に対峙した。

この事件では在日朝鮮人から多くの逮捕者(1232名中130名)が出た。広場になだれ込んだ2万人のうち、5000人が在日だったといわれる。その年、大阪で起きた吹田事件(6月25日)、名古屋の大須事件(7月7日)でも、多数の逮捕者が出た。吹田事件の在日の逮捕者は250名中92名。大須事件では、269名中150名が在日だった。

こうした騒乱事件の多発に対し、大須事件直後の7月13日、民戦中央本部は、実力闘争偏重を批判する。

 

第一線の実行部隊が朝鮮人である場合が多かっただけに、切実だった。

 

一方、日本共産党は、12月中旬になっても全国軍事会議を開催し、武装闘争と日常戦闘との結合を強調するなど、極左冒険主義は改めそうになかった。

 

日本共産党のカリスマ、宮本顕治リンチ殺人事件

 

宮本顕治

日共スパイ・リンチ殺人事件こそ、過去の一事件として問われているのではなく まさに現在、只今 に於ける共産党と共産主義者の姿勢と責任の取り方。

 

 

過去、宮本顕治、袴田里見らは自己美化と権威主義、党内民主主義の破壊、 歴史の歪曲と偽造を繰り返し、未だにリンチ殺人事件に付いては、現在の彼党の HPに露骨極まりなく顕現されているように、全く、その歴史的事実を直視する 目と勇気を持ち合わせていない。


根を同じくする共産主義者特有の人格的欠陥から リンチ殺人事件ときわめて酷似した 連合赤軍リンチ殺人事件を発生せしめたことも解かれるべきその原罪として共に背負い 込む必要がある。

 

客観性の欠落した情勢判断の拙劣さ、疑心暗鬼、内ゲバ殺人と手段方法 に至るまで酷似しているからである。

そして、第一の日共スパイ・リンチ殺人事件は今に 至るまで自己批判と総括がなされていない。

 

其の時代委員長であった田中清玄の手記によると共産党はピストルを大量に密輸入し 資金もコミンテルンから得ていました。50件を越える警官殺傷事件があったのです。

 

自分の陣営内部に対しては、日共スパイ・リンチ小畑殺人事件の発生の前年 にも 全協関係の党員、活動家であった尹基協をくじ引きの結果、村上某が加害者となり、 ピストル射殺、また、平安名常孝を絞殺と刺殺を東京荏原戸越長応寺墓地脇で謀るも 加傷のみで殺人は未遂、があった。

 

日本共産党が「暗黒裁判」とか「判決はデッチ上げ」とか、しきりにいいふらすので、ロッキード事件で活躍した法務省の安原刑事局長が怒り、「再審請求すればいいじゃないか、再審請求で無罪になった吉田厳窟王もいる。

 

国会でそれを言うぞ」と言ったら、日本共産党はびっくり、正森弁護士を法務省に飛んで行かせて、「もう今後デッチ上げってことは言わない。

 

だから国会で再審請求しろと言わないでほしい」と頼み、以後、日本共産党は、「デッチ上げとは言わなくなった」のである。

 

参考文献;日本共産党の研究1~3 講談社文庫 立花隆
       日共リンチ殺人事件 恒友社 松本明重編
       リンチ共産党事件の思い出 平野謙 三一書房
       党とともに歩んで  袴田里見 新日本出版社
       誰も知らない日本共産党のホンネ 雷韻出版
       ほか 

 

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