今日、録画していた「月曜から夜ふかし」を見ていて

非常にショックで・・・あまりにショックで

なんとか気持ちをすっきりさせようとこれを書いています。

 

時々、渋谷とか池袋とか浅草(もちろん他の場所でも)を歩いていると

「ちょっとヤバい人」を見かける時があるじゃないですか。

「この人、昼間っから飲んで駐車場のあいてる場所で寝てるけど大丈夫かな」とか

「あのおじいちゃん、なんであんなでっかいサングラスして普通に歩いてるんだ?」とか

そんなヤバめの人に話を聞いて、もう笑っちゃおうぜっていう感じのこの番組、

今週の最初のテーマが「若者の◯◯離れ」というテーマだったのだが

何が驚いたって最近の若者にとって「ジーンズ」は古臭いアイテムになっている

(古くてダサい、というイメージにもなっているような?)のだ。

今、口を滑らして「Gパン」と言いそうになったが、もう「Gパン」は死語なので

封印してしまわなければならない。

若者にインタビューしている場面を見ていたら、今はもう「ジーンズ」とも言わないらしい。

「じゃぁ、なんて呼ぶの?」と奥さんに聞いたら

「『デニム』だよ、アクセントは『ム』につけるの」と教えてくれた。

じゃぁ、今は何を履くの?

チノ系のなにか?もう、全然わかんない。

それから

「脱モテ系」というのもあった。

「もう恋愛とかメンドクサイし、だったら、モテなくてもいいわ、オレ」というのだ。

あぁ、思い出した、昔読んだ(もう20年以上前だけど)、村上龍さんの本「すべての男は消耗品である」の中に

オナニーをしなくなったタクシーの運転手さんの話があって、

どうしてしないのか、という問いに

確か「もう、そういうのメンドクサイんですよ、疲れるし」と答えていたはずだった。

村上龍さんは、男という種は、社会によりスポイルされまくってとにかく疲れているから

勃起すらしなくなったのだ、とたしか、そんなニュアンスで解説をしていたが、

もう、そんなムードが男という種にとって当たり前になって来たということなのか?

と、思わず考えてしまった。

男性にとって「脱恋愛」とか「セックスめんどくせー」という気風は今はもうマイノリティな考え方ではなくなっている。それはもう、悪いこととか、それじゃダメだよ、とも、こちらが言う問題でもないし

強制できることでもないのは、わかっている。

同じ年代だった頃、女の子のお尻ばっかり追いかけ回していた自分とは違うのだ。

そんな男子を同世代の女の子たちは、どう考えているんだろう?

やっぱり、似たベクトルのものを感じているんだろうか。

ちょっと話聞いてみたいなぁ

 

 

 



以下、ネタバレあります。
 

 

 

このブログを書く前に「パラサイト」の受賞履歴を見た。

その名だたる履歴から、この作品は単純に映画が好きな人達だけではなく、

知識層や富裕層、ソフィスティケイテッドされた

人たちにも支持されている作品だということがわかるのだが、

それは一体どういうことなのだろうか。

この作品を鑑賞後、劇場を出るときに感じた、気持ちの重さはなんだったんだろうか、

そんなことを書いてみる。

 

この映画はざっくり一言でいうと「現代社会においての貧富の差」を描いている。

「パラサイト」意味は「寄生虫」であるが、まさにその言葉のとおり、

リッチなピーポーに寄生し「ちょっとしたお小遣い稼ぎ」をして

少しでもセレブな気分を味わいたい、そんな家族が主人公だ。

彼らは半地下の住居に住み、他人の家のWi-Fiを盗み、

宅配ピザのケースを折りたたむ内職で暮らしている。

浪人生である息子の友だちから、セレブな家庭の娘の家庭教師のバイトを紹介されてから

彼らに転機が訪れ始める。

 

同じように貧富の差を描いた作品にジョーダンピール監督の「US」がある。

この作品は完全に「入れ替わり」であり「寄生」ではないのだが、

共通していることは、貧富の差は「生まれ持ったものである」ということだ。

もちろん、相当な努力と苦労をして一代で財を成した人もいるだろう。

だが、「パラサイト」の中では、その差は歴然であり、埋まることは決してない。

寄生する側の息子が、家庭教師の教え子である、リッチな家庭の娘の部屋で彼女とキスのあと、

その弟のの誕生日パーティーをぼんやり見ながら

「彼らは生まれ持ったセンスがあり、洗練されている。僕はあの中にいても似合うだろうか」

(セリフうる覚えですいません)

と、教え子に尋ねるシーンがある。

そこには、ファストファッションではない洋服を身にまとい、優雅にほほえみ合いながら

チェロをバックに披露されるオペラを聞きながら談笑する、本物のリッチなピーポーがいる。

願望の眼差しで彼らを見る息子の隣で、リッチな家庭の娘は

不思議そうな顔をしながら

「似合うんじゃない?」と答える。

当たり前だ。

彼女にとって、そういうリッチなピーポーは日常であり、その一部であるから

不思議そうな顔をするのだ。

 

詳細は避けるが、ある雨の日、寄生する側の父親、息子、娘(だったかな)が、テーブルの下に隠れている時

その横のソファーでリッチな家庭の旦那さんが、奥さんとセックスをしながら

その父親のスメルについて話し始める。(おそらく)密かに奥さんに憧れていた父親にとって、

半地下生活で身に染み込んだ、体の奥底から匂う貧乏スメルは、決して取れないと

嘲笑とともに気付かされるシーンは、格差というものが絶対である、と突きつけてくるのだ。

と、同時にそのシーンあたりから

臭わないはずの彼らの匂いがスクリーンの中から溢れてくる。

自分は違う、ここまではひどい生活をしていない、スクリーンを見ながら何度も思う。

リッチな奥さんが買い物をしながら、値段も見ずに、買い物かごに品物を入れるシーンがある。

ピーポーのセレブな生活とは、そういうものなのか。

羨望と嫉妬の混ざった視線で彼らを見てしまう私達は、その思いが

主人公の視線と同じであることに気づく。

スクリーンから臭っていた、と思っていたその臭いは自分の体臭であると気づくのも

彼らに対するうっすらとした殺意に気づくのも、この頃だ。

 

故にリッチなパパさんが死んでも何も悲しくない。

彼らが住んでいた家が空き家になってもなにも寂しくない。

(空き家になるくらいだし、一家の大黒柱が死んだのだから、きっと家庭崩壊したんだろう。

でも、それも悲しくない)

リッチなパパさんを刺殺し、逃亡した半地下のお父さんの行方も気にならない。

その息子ができるはずのない約束を誓っても鼻で笑うだけだ。

最終的に救いのない映画だったのにも気にならない。

ただただ、自分の貧乏さ加減を目の当たりにし、絶望だけが心に重さを与える。

社会がいけないのか、政治が悪いのか、会社が悪いのか、オレが悪いのか。

テレビをリアルタイムで見ることが減りました。

 

朝は時計代わりに情報番組を見ていますが、

8時以降はテレビを消してしまいます。

休みの日はPCの前にいることが多いので

それでテレビを見ない、というのもありますが。

 

たいてい、ラジオかSPOTIFYで音楽か落語を聞いている時間が多い。

 

唐突ですが

職場の一人暮らしの若い子に話しを聞くと、わりと多くの子が

「テレビは見ないし、だいたい、テレビは持っていない」という。

へぇ、じゃぁ何見てるの?

「YOU TUBEとかですかね」

ドラマとか見ないの?

「あー、あんまり見ないですけど、今ならAmazon PrimeとかNETFLIXとかで何でも見るじゃないですか」

まぁ、確かに。


自分もテレビで見るのは、録画してあったWOWOWの番組とか

NETFLIXが中心だしなぁ。

 

もしかしたら、とは思っていたけど

地上波テレビ離れって思っているより深刻なのかも。

 

「面白そうだなぁ」という気持ちだけでなんの知識もなく行ってまいりました。

イメージとしては、偶然出会ったきれいなお姉さん4人が、ホテルの一室の中で

パジャマトーク的なお話から始まって、ちょっとした事件があって

みんなの結束が強くなる・・・そんなお芝居を想像していましたが・・・

 

全っ然違いました!!

 

悪意に満ち満ちていて、シニカルで、ブラックなユーモアとスリリングな台詞が

紡ぎ出す先の見えない展開、そしてどこか血なまぐさい役者たち。

開始2〜3分で、このお話のいびつさに居心地が悪くなり

シルビア・グラブとブルゾンちえみが

ゲラゲラ笑いながら登場するシーンで、横っ面を叩かれる勢いで気付かされる。

「この物語の登場人物にまともな人は1人もいないよ」と。

なるほど、それがわかれば、大波に揺れるボートのような

このお話の居心地の悪さも背負う不幸も、こぼれ落ちる悪意も楽しんでやろうじゃないか、

そんな気にさえなってくる。

 

すべての役者がいい。

そこにいるだけで舞台の空気を安定させてしまう、シルビア・グラブはの上手さは素晴らしく、

正反対に不安定な存在を演じる鈴木杏は、不穏な揺さぶりを舞台でかけ続ける。

1人終始ぶれない存在のブルゾンちえみは、初舞台と思えないほどだし

朝倉あきから交代した、花乃まりあは、思い切った演技で宝塚からに比べれば一皮向けたような

存在感がある。

 

予定調和ではないエンディングに向かうにつれ、彼女たちの演じる舞台を通して

こちらの心の闇をいつの間にか見ていることに気づく。

そこまで不幸じゃないさと言えるんだろうか、と思いながら。

全体に散りばめられたブラックな笑いに慣れた頃、物語は終わってしまう。

上演が終わり、カーテンコールの後でも

席を立った後でもついつい、この物語のことを考えてしまう

「こんな面白いお芝居観たよ!」と誰かに話したくなってしまう

パッと一言二言で語れる面白さではないし、この舞台の魅力は伝えられない

のはわかっている。

人によってはひいしまう話だというのもわかっているが

自分ひとりの中に留めておくにはもったいない作品。

 

マチネだった、ということもあって

周りのお客さんの年齢層は高めでしたが

ケラの書いた脚本とお芝居をチョイスし、

劇場に足を運び、笑って楽しんでいるセンスは

カッコいいって思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

理由はわからないけど、ある日突然電気が使えなくなった、という設定の映画。

大学生のお兄ちゃん、高校生の妹、サラリーマンのお父さん、専業主婦のお母さんが

「電気は大阪にある」という噂を信じて自転車に乗って、ひたすら西へ向かう

という、ざっくり言えばそういうストーリー。

日付は忘れたけどWOWOWさんで視聴

 

以下ネタバレ込みですよ!

 

 

 

 

 

・何も起こらない映画

こんなに何も起こらなくていいのか、と首を傾げましたですよ

サバイバル術は「あーなるほどね」というところもありましたが

最初の設定から何も起こりません。

ただただ、人気のいないところを自転車で走ってる、そんな話です。

 

・目配せの多い映画

実際、こういう映画って登場人物が少ない分、親子の絆にストーリーの

重きがおかれて、今まで反抗的だった娘が心開く、とか

無口なお兄ちゃんが、立派なオトナとしてせいちょうしていく、とか。

それっぽシーンはあるのですよ。

娘は大阪に到着した時、電気ないじゃん!ってキレるシーンで

父親の無能ぶりが露呈されるんだけど、すぐ、次のシーンへと行ってしまう。

「ほら、お父さん無能だけど、食べ物のために土下座するいい父さんなんですよ。

娘も息子もここで父親を尊敬するですよ!そのあたりの葛藤とか親子のやり取りは、

ほら、お客さん、いろんな映画思い出して自分で考えてね」っていう感じ。

結局、奥さんの実家の鹿児島に行くことになるんだけど

鹿児島についてから、娘も息子も急に良い子になっちゃう

そのあたりも「まぁ、色々あって素直になったんですよ。何があったとかは、今までお客さんが観てきた

好きな映画を当てはめてね」という目配せがあったり。

 

・何よりもキャラクターに魅力がない

小日向文世さんのお父さん。

デスクワークは得意だけど、家庭では役に立たない人。

深津絵里のおかあさん

やりくり上手

うまい役者さんなんだから、もっとなんかあるでしょ。

それ以上に人物像が描ききれてないので、登場人物を好きになれない。

 

・設定に無理がある

電気がなくなって、国民が暴徒化することもなく(してるかもしれないが、表現されない)、

起こる事件が小さいことばっかりなので危機感も募らない。

それに出会う人がみんないい人なので、どうせ目的地に着くんでしょ、くらいな

感想しか出ない

 

コメディでもなく、指南映画でもない。

 

今まで見た作品の中で2番めにつまらない映画でした。

ちなみに一番は「疾風ロンド」

 

この監督の作品、スウィングガールをピークとして

下降をたどる一方ですが、こんな監督に

電通やらテレビ局がお金出すのは

営業がうまいからなのかなぁ?

 

あまりにつまらなくて

 

 

人との出会いで勇気づけられるとか、親子の関係が悪化して、修復して絆が強くなる、とか

 

 

 

 

先日、健康診断で病院へ行きました。

身長・体重・胴回り・・・と、シートに書き出される、残念な数字を

「早く終わんねぇかなぁ〜」という自虐的な目で見ておりました。

いや、だってさ、この歳になって、健康診断楽しみにしてる人なんていないでしょう?

 

で、帰りに「ファーストキッチン・ウェンディーズ」に寄ったわけです。

カウンターに行こうとすると、バイトと思われるお姉さんが

「現金、カードでのお支払いのお客様はセルフレジにてお願いします」という。

示された指の先には、ATMサイズの機械がどーん、と鎮座している。

ランチタイムもズレていたので、店内はそんなに混んでいなくて、今が

ランチタイムだったら、このへんはごった返していたんじゃないだろうか・・・

なんてことをぼんやり考えながら

オーダーをしていて、財布出すのが遅れて一回オーダーがキャンセルされちゃいましたが

オーダーをすると、整理番号が発行されて、それがカウンターの上にあるモニターに表示されれば

出来上がりだよ、取りにおいで、の合図である。

 

さて、オーダーしたものが出来て、食べていると

見た目、70代の男性がお店に入ってきた。

カウンターにいるバイトのお姉さんは、マニュアル通り

「現金、カードでのお支払いのお客様はセルフレジにてお願いします」と

その男性に向かって言っているのだが、その男性はどうしていいか、わからない様子で

カウンターとお姉さんの指先が示す、セルフレジを交互に見ている。

堪りかねた店長らしき人が「こちらへどうぞ」と言ってカウンターへ案内していた。

「メニューが見たくてね」男性は照れくさそうに言いながらカウンターでオーダーを始めた。

 

あー、カウンターでオーダーできなくなっちゃたんだぁ、とか

セルフレジなんか止めて、もとのカウンターだけに戻せばいいじゃん

とか、スマホ持ってればQRコード決済もできるのに・・・とか、

そういう事を言いたいんじゃないんで

あと、20年位たった時に、恐らく、こういうファーストフードショップも

今のような会計スタイルではなくなっていて、

カウンターに座って「並でつゆだく」と言って食べ終わって現金を出して会計、

なんてお店はもうなくなっているような気がする。

きっと、今のスマホの先に出てくるデバイスとOSが開発されて、

そのオペレーションは70代になった僕には、直感的にオペレートできる代物じゃなくなっていて

「まだスマホっすか」とか言われているかもしれない。

(カードゲームのデッキがまるで理解できないのと同じように、だ)

 

僕はその時、躊躇せず、そのお店でUSAバーガーを買えるのだろうか。

店内で目を泳がせている僕を見て

「だから昭和生まれはよぉ・・・ちっ」とかアルバイトのお姉さんに舌打ちされてるような気がする。

 

あ、写真のUSAバーガー、食べてない人にいうと

思っている以上に小さいからね!!

しょこたん@六本木

少し前の話になりますが・・・

7/19六本木ヒルズアリーナで行われた「コカ・コーラSUMMER STATION音楽ライブ」の

しょこたんこと、中川翔子さんのライブに行ってきました。

ワタクシ、1人で行きまして、席が前から3列目。
周りはハッピやらツアーTシャツやらを着たコアなファンのみなさんのど真ん中に
ただ、「生しょこたん見てぇ〜」と、曲も知らずにノコノコやって来た50過ぎのおっさん、

それが私です!

あ、ヌイグルマーZは知ってるな。

隣の席にいたカップル「あんまり曲とか知らなくて」と彼氏くんが言っている。

なんだ、一緒じゃねぇか。よかった。

周りを見渡すと、ファミリー席もあり、ファン層の広さを伺わせます。

 

さて時間になって、しょこたん登場です

一曲目から周りが立ち上がるので、つい一緒に立ち上がったのはいいが

曲知らないので、目の前のコアなファンのみなさんとの温度差を

肌でひしひしと感じていて・・・

あ、そうだ、隣の カップルの彼氏くんもよく知らないって言ってたよな

と、隣見るとあんた、ノリノリでタオルぐるぐる回してるやん!

一緒に歌ってるやん!置いてかないでぇ〜(´;ω;`)

 

ポケモンの曲とか、アニメの曲とか歌ってた・・・

だってわかんないんだもん。あ、ラプンツェルの歌も唄ってた・・・

 

いやぁー、曲進むごとに周りの皆さんとの温度差が広がってく・・・

赤道直下と北極圏くらい違う・・・(個人の感想です)

曲を知らないアーティストのライブに来る時は、席が選べるならもっと後ろの席で見よう

と、心に誓う。

別にしょこたんやファンのみなさんが悪いわけではなく、勉強不足なワタクシがいけないのですが(きっぱり)

 

しょこたん、MCの時に何度も「生きろ」という。

「生きてまた会おう」という。

「タピオカ!」という

「猫を優しく撫でろ」という

声優として、歌手として、女優として、おそらく

色々なことにチャレンジしているんだろうし、経験を積んでいるんだと思う。

今回のライブは、一時間のショーケース的なものだったので

いいとか悪いとかないけど。

 

アンコールで小林幸子さん登場。

一曲「クレヨンしんちゃんオトナ帝国の逆襲」からソロで唄ってくれましたが

圧倒的な存在感と音量、そして音圧。さっちゃんすげぇ。

この日は生さっちゃんの歌聞けただけでも「よし」とする気持ちが芽生える。

子どもたちと、さっちゃんとしょこたんで

映画「ミュウツーの逆襲」のタイトルナンバーを唄って終了。

 

しょこたん、可愛かったな。

道にいる野良猫に自分はあんまり好かれないので、

優しく撫でられるくらい、仲良しになる方法を教えてほしいなぁ

 

 

相対性理論@日比谷野音

さて7/21、日比谷野外音楽堂で行われた相対性理論のライブに行ってきましたよ。

なんでも「調べる相対性理論」の再現ライブだそうで・・・

こちらも、ほとんど曲知らないという、勉強不足な状態です。

以前からやくしまるえつこさんの声にはすごく惹かれていて

「スペースダンディ」「ハイスコアガール」の曲は好きで。

今回はタイミングもあったので、一回ライブ見てみよう、そんな思いで

日比谷の野音にやってきました。

 

夏の夕方から夜にかわる時間を外で過ごすなんて久しぶりだなぁ、なんて思いつつ

ライブが始まるのを待ちます。

意外(?)なことに子供さん連れが多くてびっくり。

もっと、なんていうのかな、全身に栄養がいきわたってないような人たちが

フラフラしながら集まってくるのかな、と勝手に思ってましたが

ちびっこはキャッキャ言ってるし、老若男女、年齢層も幅広い、そんな客層に驚き。

 

さていよいよライブスタートですが、

プロジェクションマッピング、SEとおそらく

そこにあるすべてが相対性理論の世界観と変わっていく。

席はステージから結構遠い位置でしたが、

誰も見ていない、突き放しっぱし、目の前にあるものよりも

今こうして曲を唄っていても、己の世界から一歩も出ていない、

やくしまるえつこの冷淡で猫の目のように甘い歌声が日比谷の夜の公園に響く。

ドラムがバシャバシャ刻むリズムがライブ感を盛り上げる

オーディエンスは手拍子もなく、コールアンドレスポンスなんてものはあるはずもなく

かと言って、パフォーマンスを楽しんでいないわけではない。

曲ごとの拍手は熱がこもっている。

ここにいるオーディエンスはそれぞれの楽しみ方をしているが

やくしまるえつこ、というアーティストの体感温度の低さ、距離感の遠さがそうさせているんだと思う。

 

ライブ再現なので(?)一時間少しで終了しましたが

ちょっと見たことがない世界でした。

おそらく、唯一無二の世界観のライブ。

今度はもっと近くでみれたらいいなぁ・・・!

 

しょこたんと相対性理論、ベクトル的には両極端でした!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



昨日、東宝版エリザベート2019を帝国劇場で観てきました。
まぁ、紛うことなき名作なので、今更お前が何を言う、な感がありますが

劇場を出たあとの帰り道、駅に向かいながら

ふと、この「エリザベート」という作品を観たことがない人に説明するには

どう説明すればいいのだろう、と考えてしまったのです。

Wキャストの比較?宝塚版との違い?それとも、2016年版との比較?

いや、ミュージカルとか、全く知らない人だったら?

困った、同説明したらいいのかわからない。。。

というか、エリザベートはどんな作品なんだ?

うーん、だったら、それを書いてみようと思う。

 

最近の東宝版(2016)も宝塚版(2018)も未見であるため演出の違いなどは

今回、僕が観たバージョンを軸にする、ということを念頭においていただきたい。

 

席に着き、まず、目に入るのが照明が灯るのを待つ、薄暗い不気味なセットだ。

舞台の下手上手それぞれに、朽ち果てた門があり、大きな窓枠、そしてパースの狂った大樹があり、(このあたりは記憶が曖昧)

観ているだけで、うっすらとした不安に足元を掴まれそうになる。

そのセットを見ているだけでも、今回のエリザベートは、何かが違う、そんな気持ちにさせるのだ。

 

客席の照明が落ち、舞台はいよいよ死者を迎え入れる。

ルキーニ。この物語の狂言回し。

彼がトートダンサーズに抱えられるようにして登場。

僕の知っている今までのエリザベートと少し台詞が違う。

彼が死んでからこの煉獄で100年も続く裁判。

毎晩、皇后エリザベートを殺した理由を繰り返し尋ねられているという。

やがて、ハプスブルグ家の亡霊が現れ、裁判官に

「私達は無罪です、すべてはエリザベートのためしたことです、彼女は気難しく、

求めることが多かったのです。私達に罪はありません」と訴える。

そして、黄泉の国の帝王、死を司るトート閣下が、大きな羽をつけ、文字通り「降臨」する。

彼は以外にも「エリザベートへの愛が過ちだった」と謳うが

その声はルキーニにしか届いていないようだ。

舞台には、正確にはなんと呼んでいいのかわからないのだが

ディズニーのパレードででてくる、フロートのようなものが3台現れる。

そのフロートのそれぞれの天辺が傾いており、その3台が並ぶと、高い部分から、低い部分へ

その傾きを引き継いでいて、3台が一列に並ぶとそれがまた

一つの舞台装置として機能するようにできているのだが、そのアンバランス感が、

他の舞台セットと相まって観ている側を余計に不安にさせるのだ。

やがて音楽にあわせて、エリザベートの絵画を模したベールが現れる。

そこに浮かぶシルエット、音楽が最高潮に達した時、

ベールが放たれると、幼き日のエリザベートがそこにいる。

恐らく、エリザベート自身もルキーニと同じ煉獄にいて100年間

彼女の人生を毎晩、毎晩繰り返しているのではないか。

「私達は無実です」と訴える、彼女以外のハプスブルグ家の亡霊たちにその罪深さを見せつけるために。

 

今回、黄泉の帝王トートを初めて演じる古川雄大さんの麗しく美しいの歌声は媚薬のように甘い。

表情の冷たさとのギャップもあって、井上芳雄トートにはない妖艶さがある。


舞台は一転して、エリザベートが幼少の頃の日常の世界へと変わる。

幼い日のエリザベートを演じる花總まりさんを表す言葉は「可憐」の一択で十分だ。

登場早々、猟銃を撃ち放ち「パパみたいになりたい」と歌うエリザベート。

乗馬したいし、狩りにも行きたいし、サーカスの団員になって世界を旅したいという。

そんなエリザベートを嗜めるように歌い、これから始まる親戚の集まりから

姿を消す父マックス。

だが、個人的にはこの辺のくだりはさっぱり頭に入ってこない。

死の世界から一転、舞台が明るくなりこのシーンで初めて目にするのは

父マックスとエリザベートのフランス語の家庭教師の濃厚な大人のキスシーンなのだ。

エリザベートの登場とともに、鳴り響く猟銃の音がなければ

恐らく事に及んでいたのではないか、そう思わせるくらいに。

この家庭教師を演じるのは、元宝塚の七瀬りりこ。

前からなんとなく艶っぽい人だな、とは思っていたのだが、素晴らしい適材適所。

今回のエリザベートは、主役はもちろんのこと、アンサンブルキャストの隅々まで

演出の目が行き届いており、セリフのない群衆の場面でも

そこには街があり、群衆のざわめきがあり、怒りがある。

誰もがそれぞれのストーリーを背負い、そこにいるのだ。

 

そんなある日、

エリザベートの姉が3年間の花嫁修業を経て、母の姉である皇太后ゾフィーの息子、

ハプスブルグ帝国の皇帝フランツとお見合いをすることが親戚一同に発表される。

集まった親戚一同が大騒ぎの中、エリザベートは木から落ち生死をさまようことになるが

彼女の美貌が黄泉の国の帝王、死を司るトートの目に留まる。

「お前の命奪う代わりに生きたお前に愛されたいんだ」と、歌うトート。

彼は、人間の女性に恋してしまったのだ。

何故そのまま連れて行かなかったのか、と疑問は残るが

トートはエリザベートを死の淵から抱き起こし、生の世界へと舞い戻らせる。

トートによって命を永らえたエリザベートは、その後、母、姉とともに姉のお見合いに同行する。

エリザベートの美しさに心を奪われたフランツは、エリザベートの姉を差し置いて、

エリザベートに求婚のダンスを申し込む。

そして、いよいよここから本格的な不幸が始まるのだ。

 

結婚前、二人の恋愛期で歌われる、愛おしくなるくらいの優しいデュエットナンバー

あなたが側にいれば」を参照してもらいたい。

エリザベートのパート、フランツのパートの歌詞を見ると

すでにお互いの視線の先にある、観ている景色が違うことは、ここではっきりとしているが、

若さゆえか、二人でいれば、お互いが側にいれば、きっと何かがかわっていくはずだ、と信じている。

まだ若い二人だ、そう思うのも仕方ないのかもしれない。

この時、エリザベートは15歳、フランツは22歳で、そう信じてしまうのも、

問題を先送りしてしまうのも仕方ないのかもしれない。

花嫁修業を3年してきた従順な姉とは違い、自由奔放に生きてきたエリザベートにとって、

姑である皇太后ゾフィーの管理下でしきたりを重んじながら過ごさなければならない

宮廷の生活は恐ろしく息苦しかったはずだ。

歌詞から引用すれば宮中の生活は「朝5時から全てが始まり」「しきたりに従いなさい」

「全てに許可がいる」という。

重ねて書くが、16歳の元気な女の子にとって、しかも、姑という存在からのこのような躾は

どれだけ辛い毎日だったろうか。

しかも、味方であるはずの夫は、頼りなく、母であるゾフィーに反抗することができない。

このゾフィーを演じる香寿たつきさんがいい。

頭が硬そうで、長年秩序を重んじ続けたため、表情を失った冷たい顔で

「宮廷で唯一の男」と呼ばれたゾフィーを好演している。

エリザベートは17歳で長女を生むが、姑である皇太后ゾフィーに取り上げられてしまい、

しかも、初孫だという理由で「ゾフィー」と命名されてしまう。最悪である。

(ここで年齢を表記したが、エリザベート、フランツの年齢は劇中では知らされることはない)

やがて、彼女は自分の美貌が武器であると気付き、自我に目覚める。

自分は誰のものにもならない、私の人生は私のものだ、と歌う。

第一幕の終わりに自分の生き方を取り戻し、感動的なクライマックスを迎える。

この瞬間が、この作品、エリザベート自身にとって最も幸福なときなのだ。

 

だが、自我に目覚め、彼女が手に入れた自由をエリザベート自身が第二幕以降、

謳歌する様子もなく、幸福になった様子は描かれることはない。

むしろ物語は終焉に向かい、その闇が深く濃く広がっていく。

第一子は2歳で病死、夫の浮気で性病を移されてしまう。

ゾフィーから取り戻した息子、ルドルフも自分で育てることもせず、その世話は他人に任せきりだ。

自分の唯一の武器である美貌とスタイルを保つため、過剰な運動とダイエットを続け、

逃げるように宮廷を出たあとは、ひたすら移動を繰り返す生活に身を投じる。

ゾフィーの死後もエリザベートは宮廷に戻ることはない。この頃、彼女の周りに死が忍び寄る。

遠縁で親しかったルートヴィヒ2世が溺死、母の死、妹の焼死、そして最悪は

息子であるルドルフの自殺である。(その顛末は宝塚歌劇団『うたかたの恋』を参照願いたい)

各地を転々としていたエリザベートは、息子の側にいることも少なく、彼の悩みを聞いてやることもできなかった

その後悔からか、やがて人目を避け、喪服しか着なくなった。

エリザベートは、ほぼ毎日、夫であるフランツから恋文を受け取っていた。

そして、1889年9月10日、遊覧船に乗ろうとしていたルキーニに、エリザベートは

ヤスリで胸を刺され、滞在先のホテルで死亡する。

エリザベートにとっては、今まで生きながら眼の前にあった現実の世界が地獄の煉獄だったに違いない。

生きることの呪縛から開放され、死を受け入れることで、トートの愛を受け入れたのだ。

今まで黒の衣装で統一していたトート、息子の死後喪服しか来なかったエリザベートが

真白い服を着て登場する。二人は抱き合い、キスを交わし見つめ合う。

 

と、宝塚版などはここで終わりなのだが

今回は、エリザベートはキスのあと目を閉じ、まるで本当の死を迎え入れたように

力なく、トートに回していた腕がほどけてしまう。

トートは、ようやく手に入れた絵画を立てかけるようにエリザベートを置き、その場を去ってしまう。

まるでエリザベートへの情熱の火がすっかり消えてしまったように。

エリザベートもトートの膨大なコレクションの一つであるかのように。

 

さて、主演を務める花總まりは文句なく他の役者、アンサンブルも含め

非の打ち所がない。

特に、精神病患者のヴィンデッシュを演じる真瀬はるかさんの歌唱力は

恐らく主役以上であるのではないか、と。

 

今回のエリザベートは、僕が観た中で、最も「死の匂いが濃厚」な作品だった。

誰が何を話していても、佇んでいても

死に向かっていく重い不安が頭上の雲のようにのしかかり続ける。

 

考えてみれば、物語上、全員に死亡フラグは立っているのだが(笑)

 

 

5月1日イイノホールで行われた「レビュー・ニッポンモダンタイムス」を観てきました!

 

今回セレクトされている曲は、

僕らが普段聞き慣れている、ロックやJ-POPのようなリズムではなく、

曲が始まれば、自然と体が気持ちよく動いてしまう「スイング」のリズム。

出演したOGさんたちは、安定感、存在感抜群の皆さんから

退団後間もない皆さんもあわせて

幅広い年齢層のOGさんが参加していました。

実際、ショーが始まると、

ダンス、曲、そして身にまとう華やかなドレス、

どの曲のどの場面を切り取ったとしても

すべてが素晴らしい瞬間、「眼福・耳福」な時間でした。

 

一人ひとりの方の感想だと長くなってしまうので

個人的に気になったOGさんのことをいくつか。

 

安奈淳さんは、ステージに立った瞬間から唯一無比の存在感がステージに拡がり、
歌い始めると、その歌声とその世界観から目が離せなくなってしまいます。

安奈淳さんを通して唄われる曲は、どんな曲も安奈淳さんの人生の一部を

一度、通過し、彩った曲として聞こえてしまうマジックを帯びていました。

こんな風に唄える人は、恐らく数少ないんじゃないかな、なんて思ってしまった。

 

峰さを理さんは、不思議な力強さと、優しさがその歌声に満ちていて

固く結ばれた気持ちのひだを解きほぐす暖かさを感じる歌声。

メロディを押し進めるのではなく、優しく手を引いて導くようでした。

 

ちょうど前の日にスカイステージで「エールの残照」を観ていたため

麻乃佳世さんは、現役時代のハスキー歌声を想像していたのですが

今では、現役当時とは変わり、進化したその伸びやかな高音、女性らしさが増した

柔らかく滑らかな歌声には圧倒されました。

 

前半ではサポートに回っていた舞風りらさんですが、ご自身がメインのボーカルの曲となると

キラキラと輝くような存在感で曲を披露していましたし、

星奈優里さんは、現役でもまだまだイケるんではないか、というくらいの高いダンスと

妖艶な歌声に魅了されてしまいました。

 

初風諄さん、日向薫さん、姿月あさとさん、稔幸さんは、もう言葉がいりません。

みなさんが作り上げる、それぞれの世界に引き込まれるばかりで

安定の素晴らしさでした。

 

ただただ見入ってしまった成瀬こうきさんには、もうひれ伏すしかなく、

艶めかしい歌声の扇けいさんのうっとりさせられました。

 

そして、個人的に一番だったのが美郷真也さんでした。

何度か歌声は聞いたことがあったのですが、恐らく、今までは

男役の音域で歌われていたことが多かったのかと思うのですが

今回の曲は女性の音域で唄っているようで、

心に響く女性らしい柔らかで甘く滑らかな歌声には

正直、驚かせれました!

もっとこの人の歌声もっと聞きたいです!

 

美翔かずきさん、真波そらさんの美しくエネルギーを放出し続けるダンスも素敵でしたし、

ここで紹介しきれない人も一人ひとりが輝いていました。

 

バンドも素晴らしかったし、パンフレットの読み応えも十分。

トータルで50曲近くの曲が演奏されましたが、あっという間の素晴らしい時間でした。

元号が変わって、初めてのコンサートがこのコンサートで本当に幸せでした。

今週の月曜日から入院しています。
扁桃腺肥大を切除するためなのだ。
今まで放っておいて来たのだけれど
この扁桃腺のせいで年回5回以上熱を出し
仕事に穴を開けているため
お医者さんの勧めもあり、この際手術して
スッキリすることにしたのだ。



写真は、手術後、2日目のごはん。
全部液体ですぜ