夫も私も人間関係に苦しむことはほとんどありません。夫はゼロです。長男も次男も全く困っていません。次男の親友西野君もです。これはどういうことかというと「類は友を呼ぶ」です。同じ価値観の人の周りには同じ価値観の人が集まる。同じ匂いのする人を人は探すものなのです。逆に人間関係に苦しむ人の周りには同じような人が集まる。愚痴や悪口を言う人の周りには同じように愚痴や悪口を言う人が集まるというのはよく知られた法則です。

夫は長いラグビー部生活で、集団生活を上手くマネジメントする方法を会得し大人になりました。大学1年の時、顔をパンパンに腫らしてデートの待ち合わせ場所に来た夫が「先輩に殴られたわ」とサラッと言い、眼底骨折や鼻骨骨折の危険性にオロオロする私に「だーいじょーぶやって、こんなん慣れっこやわ」と言ってのけたのには驚きました。そしてトドメのようにこう言ったのです。

こういうことするヤツはおれのことが好きなんや

その時私は夫が何を言っているのかさっぱりわかりませんでした。しかし夫は既に人間関係の機微をわかっていたのです。もちろん夫は殴った先輩のことを愚痴ったりすることは一切なく「この話はこれでおしまい!」と言ってデートを楽しみました。そして数ヶ月後には、その殴った先輩と一緒にデートの待ち合わせ場所に現れたのです。その時の2人はまるで兄弟みたいに仲良くなり、夫も先輩に「タメ口」をきいていました。

その夫は息子たちに「喧嘩はしろ、でも、必ず自分から仲直りの握手をするんや」と繰り返し教えていました。全力でぶつかり合い戦った後は互いに敬意を払い合うというのはラグビーのノーサイドの精神です。「やだ!おれは悪くない!」と駄々をこねる次男には、喧嘩した後も、ネチネチ悪口を言ったりして延々根に持つのは半端者のすることで、喧嘩はのちに仲良くするためにやるものと教えていました。これは議論の本質でもあります。議論は喧嘩ではありませんが、日本人が議論下手なのはこういう教育が乏しいからです。こういうことは幼少から教えることに意味があり、三つ子の魂百まで、幼い頃の性質や気質がのちの人生を大きく左右する。精神科医の私は、年々過酷になる労働環境や複雑化する人間関係を考慮すると、組織や職場で生き残るにはこのような人間関係対処能力が不可欠と考えます。しかし大人になってから慌てて身につけようとしてもそう簡単に身につくものではないため、幼少からの教育が大事なのです。