【随筆】親知らず(舞台「だまれ、未来。」終演の挨拶にかえて) | シュガー・ドラゴンのブログ

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 高校の時分、左下の奥歯が疼きだした。何事かと指でなぞってみたら、歯茎がひどく腫れていた。それを母親に告げると、「きっと、親知らずが生えてきたんだよ」と教えてくれた。どうしてそんな名前なのかと尋ねてみると、「小さい頃の歯と違って、親が知らないうちに生えてくるから」と母は答えた。
 「でも、知ってるよね?」私は言った。
 「なにを?」と母。
 「親知らずのこと。少なくとも俺の親知らずが生えてきてるのは、いま知ったわけだし。それに、親知らずというものを、母さんは知ってたけど、俺はさっきまで知らなかった。親知らずのことを親は知ってたけど、子供は知らなかったんだから、親知らずは親知らずじゃなくて子知らずなんじゃない?」
 「それだけ無駄口たたけるなら、歯医者の必要はないね」と言って、母は出しかけていた保険証をしまった。

 高校を卒業するというので、久方ぶりに娘と会う機会を得た。売れない役者を続けている私は、家族から愛想を尽かされ、長らく別居生活が続いている。十八才になろうという娘は、薄化粧をして、耳にはピアスの跡があった。いつの間に、こんなにも大人びてしまったんだろう。私には、娘の至るところが親知らずだった。
 少なからず動揺した私は、ただ「よう」としか言えず、娘はふて腐れた様子で薄ら笑いを浮かべた。それは会話とも呼べない、長い空白の時間を埋めるには不十分なやり取りだったが、私はありし日の娘の面差しを認めていた。娘は前歯が大きく、唇の隙間からそれが覗くと、兎のように見える。幼い頃と変わらない娘の姿が、そこにはあった。私がそんな思いでいるとは、娘は知るはずもなかっろう。これは、私にできた子知らずだった。

 娘に親知らずが生えたかどうか、親の私は知らずにいる。男親ということもあり、娘が成長するにしたがって、知らずにいることばかりが増えていった。ましてや別居が続いている今となっては、娘の存在そのものが親知らずのようなものだ。
 だが私にも、負けないくらいの子知らずがある。
 娘に初めて歯が生えた時のこと。
 娘の歯が初めて抜けた時のこと。
 娘に初めて生えた永久歯が、大きな前歯だった時のこと。
 娘を初めて抱き上げて、私の手のひらから肘までの大きさしかなくて、あんまり軽くて、あんまり弱くて、震えが止まらなくなってしまった時のこと。
 こうして思い返してみると、幼い娘との何気ない日々の一つひとつが、子知らずとなって胸に痛い。
 もしかしたら、親知らずという名前は、手のかからなくなっていく子に対する、親の寂しさ紛れの強がりからなのかもしれない。
 母に親知らずの話をした時、母にもこんな思いの子知らずが、きっとできていたことだろう。


(終)