10/3
湯河原駅は、いくつかの登山客グループで賑わっている。
今日も空は澄みきって、午後の日差しに、木々の緑色が映える。
電車は、しばらく来ない。
東京暮らしに慣れてしまったけれど、
ここでは、時刻表を確認するのが必須なのだと思い出した。
東海道線に揺られて、東京駅まで2時間ほど。
心地よい揺れの中で、茅ヶ崎駅の”希望の轍”を最後の記憶に、
僕は眠りに落ちた。
東京駅は今日もせわしく、人波を正確に振り分けている。
新宿へ。頼まれた絵具を買いに、世界堂へと向かう。
うちの家族はみんな、絵具は”マツダスーパー”と決めている。
祖父母が貧しかった頃、”マツダ絵具”は二人の若き画家のために、
絵具を安く売ってくれたそうだ。
その援助のおかげで、彼らは画家を続けることができたのだ。
会計を済ませ、世界堂を出ると、街はもう夕暮れの中。
駅に向かってぶらぶら歩き出す。
僕は、ここから見える新宿の街並みが好きだ。
伊勢丹があって、丸井があって、紀伊国屋があって。
新宿。
それは僕にとって、東京を象徴する場所だった。
祖父が湯河原から毎週通っていた場所。
家族の会話の中心にある場所。
5歳まで過ごした荻窪につながる場所。
いつか、僕が戻る場所。
高校時代まで、漠然とそう思ってきた。
この風景が好きなのは、そんな思いのかけらが
僕の心のどこかに残っているからなのかもしれない。
中央線に乗り込み、国立の妻の実家へと向かう。
妻と母は、現在ヨーロッパを旅行中。
留守番中の猫の世話。これが、僕に与えられた仕事である。
フクロウの飾りがついた鍵をポケットから出し、オートロックをあける。
部屋に入り、明かりを灯すと、テーブルの下から、怪訝そうにこちらを見つめる二つの瞳がある。
僕は、招かれざる客であることを自覚しながら
それでも二言三言声をかける。
しばらく、僕を眺めると、彼女はのっそりと腰をあげ、
できるだけ僕から離れたを道を選択しながら、
階下へと姿を消してしまった。
取り残された僕は、ソファに身体を投げ出して、大きく息を吐き出す。
蛍光灯に照らしだされた部屋は、うっすらと明るく、
主人の不在が、その静寂に現れている。
今日は、ラグビーがあるのを思い出す。
誰かと一緒に見れたらいいのにな、と思った。