湯河原days3 | 須藤峻のブログ

須藤峻のブログ

すどうしゅんによる、心の探究日誌。
生きることは不思議に満ちてる。自由に、自在に生きるための処方箋。

夜半を過ぎた辺りから雨足は激しくなり、猛烈な風が吹き出した。
轟々と唸る風と叩きつけるような雨音の中で、僕は夢と現を行き来して、
東の空が明るんできた頃、ようやく浅い眠りに落ちた。

日差しの眩しさに目を開けると、階下に母の気配はない。
彼女のことだ。早くから庭に出ているのだろう。
着替えて庭に出ると、南側の楓の木が折れ、
鉢植えの植物たちが、方々に転がっている。

知らぬ間に増えていった植物は、引越しに際し、その半数を譲ったものの
20鉢以上が残り、2トントラックに積んで、遠路はるばる運んできたのだ。

雨に濡れてずっしりと重くなった鉢を起こし、
折れた枝々を運び、竹箒で、さくらの葉、楠と楓の小枝を掃き寄せる。
緑色の木漏れ日が水たまりにキラキラと反射し、
キンモクセイの甘い香りに誘われたハナバチが
丸い体をブンブンと揺らしている。
今日は暑くなるのだと、母が言った。

母の小さな背中を眺める。
この小さな日常を、彼女たちが暮らしていると思うと不思議な気がした。
27年間、この道を誰かが掃いてきた。毎日毎日、欠かさずに。
祖父が、祖母が、母が、叔母が。

大学のために東京に出てから、僕は12年で7回の引っ越しをした。
だから、その場所や土地に馴染む前に、次の街での暮らしがはじまった。
僕はいつも旅の途中にいて、新天地を探していた。

部屋に戻ると、コンピューターを開き、メールをチェックする。
セッションの問い合わせに返信をし、ニュースを流し読みし、
その内の幾つかは詳細を読むと、ブラウザを閉じた。

何か、書いてみようと試みるが、さまよう指先はキーをなぞるばかりだ。
日に焼けた壁紙と無数のシミを眺めながら、僕は気がつく。
ここ何日か、言葉がうまく出てこないのだ。

いや、言葉はむしろとても協力的で、滑らかに汲み出されてくる。
しかし、何を書きたいのか、わからないのだ。

こんなことは、初めてのことかもしれない。

僕には、いつも、書きたいことがたくさんあった。
愛について、気づきについて、生きることについて。
絵画について、映画について、言葉について。

僕は、不思議に思う。
いったい何をそんなに伝えたかったのか。
何をそんなに、論じたかったのか。

そんな僕に唯一、描くことができるのは、
何も起こらない、この日常だけなのだ。
朝起きて、庭を掃き、何か小さな出来事に出くわすといったような。

白熱灯に照らされた小さな和室に、秋の夜が忍び込んできて
僕は、着古したパーカーに袖を通した。

東京での日々が、もう遠い日の出来事のように感じられ
同時に、この瞬間が、夢の中の出来事で、目を覚ませば、
変わらぬ東京での日常が始まるようにも思えてくる。

引っ越しのトラックを追いかけて、電車に飛び乗った12年前の春、
西武柳沢駅の小さなアパートで、僕は、何を眺めていたのだろう。
その後、彼を待つたくさんの出会い、そして別れ。
少年は、その何もかもを知らずに、きっと始まりの光景に、
ただ胸を高鳴らせていただろう。

僕は見つけたいのかもしれない。
あの日から今日に続く、一続きの物語を。
いつの間にか、見失ってしまった、僕の物語を。
この新しい暮らしの中で、僕はそれを見つけるのだろうか。
それとも、そんなことすら、忘れてしまうのだろうか。

網戸越しの夜風は、かすかにキンモクセイの香りがした。