母と祖母は、朝から小田原へと出かけていった。
坂道を下りていく車を見送ると、ノコギリとハサミを携え、白木蓮の剪定へと向かう。
数匹のスズメバチが絶えず周囲を旋回する中、
意を決して枝に足をかけ、”逆上がり”の要領で体を樹上に引っ張り上げる。
足を枝に絡めて身体を固定すると、自分の腕ほどの枝にノコギリの刃を当て、切り始める。
耳元にハチの羽音が響くたびに首をすくめる。焦るほどに刃は動かず、汗が滴り落ちる。
枝を数本切った時点で地上に降り、樹形を確認し、また樹上へ戻ってを繰り返す。
次第に、わかってくる。
恐ろしいものだと決めていたけれど、彼らは無意味に襲ってくることはない。
どうやら木蓮の葉の上に、何かしらの食べ物があるらしい。
相変わらず派手な山吹色の縞模様を見せながらブンブンと周囲を飛びまわり、
いつの間にか、その姿を消してしまった。
大枝を何本も落とすと、ようやく空が覗いた。風が抜けていく。
我が家の庭は27年の間に、植物たちの力が少しずつ勝りはじめ、
もはや人は敗者となりつつある。
「杖」のようだった楠は直径1メートルに近づき、
鉛筆ほどの太さだった桜も巨木と化した。
カエデ、ヒメシャラ、夏みかん、ニセアカシア、あじさい、さざんか、ハンノキ・・・・
苗木だった木々たちは、もはや「ハサミ」では太刀打ちできない。
自然の力は静かで、穏やかで、強い。
枝は今日も伸び、葉は落ち、草木は芽吹く。
永久に変化し続けるモノとの、永久に終わらない仕事。
それは自然と人為、自由と秩序のバランスをめぐる、ひとつの争いである。
そして、いつの日か僕らは負ける。
人類の文明もそうだ。僕らの創り出した世界は、
この星の歴史の中に生まれた、ほんの一時の秩序に過ぎない。
いつの日か、自然の中へと飲み込まれ、還っていく。
落とした枝を、母屋の裏手に運び終えると同時に
重く立ち込めはじめた雲から、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。
降り出した雨は、雨脚を強め、降り止む気配はない。幕山は靄の向こうに座っている。
母屋に戻ると、不意に眠気に襲われる。
いくつかの夢を見たけれど、目が覚めるともう、忘れてしまっているのだった。
帰宅した二人と話をし、二階の和室でパソコンに向かうと
もう、日が暮れて、外は暗くなってくる。
こんな夕方は、少し物悲しい気持ちになる。
キース=ジャレットのピアノが静かに流れている。
僕は、キーボードを叩きながら、何かが生まれてくるのを待っている。
書いては消し、書いては消しながら。
過去の文章をいくつか読み、追記し、詩を直し、昔の日記に目を通すと、
ふと、ひとつの感覚がやってきた。
僕は、ただ、この日々、何も起こらない日々を愛おしんでみようと思う。
そこには、確かに時間が流れ、暮らしがあり、営みがある。
僕は、ただ、この淡々と流れる、湯河原の日常を生きてみようと思う。
庭仕事をし、掃除をし、時々ピアノを弾き、詩を書き、絵を描き、ヨガをし、眠る。
この秋の日々を、そんな風に生きてみよう。
「何かをしている時は、していない。していない時に、している。」
これは、祖父母に、画友 岩崎國彦 が贈った言葉だそうだ。
子供の頃に聞いたこの言葉は、いつしか、僕のひとつの拠り所となった。
2月に咲く木蓮の花の蕾が、しっかりと梢の先に結ばれ、開花の日を待っていたように、
僕の中で育まれていくもの、この生活の中に育まれていくものを
大切にしたいなと思った。