私たちのふるさと島根に空襲があった日⑥~1945年7月28日の記憶 | PIECE of PEACE 島根教師の会

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 昭和20年(1945)7月28日の艦載機による機銃掃射を目撃した人々の証言第6弾です。

 前回は、松江市殿町の県庁附近の様子についてお知らせしました。

 今回は、同じ松江市内の松江駅周辺の様子についてです。

 『戦後五十年記念大正昭和に生きて』大正昭和の体験を語る会 H8.5刊 掲載の踏江篤子さんと武田堯さんの証言です。

 

⑧ 田中ダイガイスト工場(松江市向島) 【奥出雲阿井・踏江篤子さんの体験】
⑨ 建物疎開作業(松江市天神町~寺町)【奥出雲阿井・武田尭さんの体験】

 私(19歳)は、1944(S19)年3月に地元の奥出雲・阿井で女子挺身隊が結成されると入隊し、松江にある田中ダイガイスト工場(松江市向島)へ勤労動員で働いていました。松江大橋近くにある富田旅館(現在の大橋館)が私たちの寮になっていて、毎朝工場へ通っていました。
 その日、空襲警報が発令され、私たちも防空壕へ入りましたが、ものすごい爆音が聞こえるので、ちょっと敵機を見ようと防空壕からのぞいてみると、ちょうど2機が急降下するところでした。
 バリバリというものすごい音がして、生きた心地もありませんでしたが、工場には被害がなかったようです。

  すぐ後に編隊を組んで通り過ぎた敵機は、玉造方面へ向かったと思われました。
 その時、松江市内で建物疎開の作業を行っていた武田尭さん(奥出雲・阿井)は、作業中に空襲警報が発令され、民家の畳の下にもぐって避難しました。すぐに敵機がきてバリバリと機銃掃射をしました。その場所は天神さんの前から寺町にかけてでした。                           
 この時、馬背坂(雑賀町)の畑に小型爆弾が撃ち込まれたということです。不発弾であったため被害はなかったようですが、近くにあった放送局をねらったらしいということでした。また、近くの雑賀国民学校に銃弾が飛んできたそうです。

 

【写真 踏江さんと挺身隊の仲間たち】