その時、その場で、その人が残したものの値打ち | PIECE of PEACE 島根教師の会

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 国立国会図書館ホームページに掲載されている「史料にみる日本の近代~開国から戦後政治までの軌跡」には、「歴史史料とは何か」について説明するコラムがあります。
 その中に
「史料の種類・区分」についての説明があります。それによると、
 
「史料は一つ一つ、歴史研究を行う上での有効性・信頼度(信憑性)が異なり、これを見極める作業を「史料批判」と呼ぶ。文献史料を例にとると、その目安となるものは、その史料を「いつ」「どこで」「だれが」書いたか、の三要素であり「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充たしたものを「一次史料」と呼び、そうでないものを「二次史料」と呼んでいる。」
 

 島根県内における学童集団疎開の歴史を調査する際、有効性・信頼度の高い「一次史料」が皆無に近い状態なのです。

 確かに県内の疎開地であった「斐川・平田・大社・鹿島・三刀屋」には、疎開体験者の手記が存在します。
 しかし、それらのほとんどは
「その時」「その場で」記録されたものではないのです。

 疎開体験の手記の多くは、戦後20年程度以上経過した時に、当時の様子を振り返って記録された「二次史料」なのです。

 唯一、佐藤納氏による『出東だより』は、昭和42(1967)年に出版されていますが、当時の日記・手紙がそのままの形で紹介されているため、ほぼ一次史料に近い状況でまとめられた史料です。
 

 島根県内における集団疎開体験者の手記がまとめられた資料としては、

 〇大社へ疎開した本田・西六国民学校に関する二次史料は『大社の史話』
 〇斐川へ疎開した堀江・西船場国民学校に関する二次史料は『斐川の学童集団疎開』
 〇平田へ疎開した明治・九条南国民学校に関する二次史料は『郷土史ひらた』『昭和戦時体験集』

であり、これらの各文献が果たす役割は大きいものがあります。
 雲南市三刀屋へ疎開した大江国民学校と、松江市鹿島町へ疎開した九条中国民学校の体験は、丸井靖夫氏(三刀屋)と中平定春氏(恵曇)の体験記のみ確認しています。
 当時、各学寮において引率訓導(教員)にょって記録されていたであろう「学寮日誌」が、島根・大阪においてひとつも確認されていないのは非常に残念なことです。
 
4月からは、出雲市平田地域に疎開した明治・九条南国民学校の疎開体験手記からわかる内容も紹介していきたいと思います。

 

【康国寺に集団疎開した児童たち~『写真で見る平田の歩み』より】