悲しいことや 苦しいことは

生きている以上 避けては通ることができないもの。

そしてそんな時、

現実を受け入れられなくて ただ茫然としていたり、

体の芯から涙を流したり、

心友に肩を抱かれたりしながら、

もがいてもがいて もがき続けます。

心の奥の奥のずうっと深いところにできた鉛のような塊は

ふつふつと 蜷局を巻いていて、

いつでも噴出できるように 様子を伺っています。

以前書いた 心の種火ですね。

それでも、そんなものは見て見ないフリでもしなければ、

生き続けていくこともできません。

見えても見えない。 感じても感じない。

そんなことを繰り返していると、

鉛の熱が 熱いのか熱くないのか

よくわからなくなる時があるのです。

いや 熱くないわけがないのだけれど、

その塊の形がなんだか 前と同じではないのかなと感じます。

時間は決して その塊を取り除いてはくれないけれど、

たしかに何かが変わってはくるのでしょうか。

 

 

 

 

娘が急遽帰国しました。

異国の地でひとり 7年間ふんばってきましたが、

不運な理由も重なって とりあえず実家(ウチ)に帰ると決定したのが ひと月前。

それから実にあわただしい時間を過ごして

とにかく無事に帰ってきました。

当面は、心身ともに充電をしながら、

次の目標を定めることになるのですが、

まだ こんな私でもできることがあるうちは、

なんとかフォローしてやりたいと思う母でアリます。

 

さて娘が帰ってくるにあたっては、

狭い我が家のことなので 3男の使っていた小部屋を仮住まいとするほかありません。

そこで、ずうっとペンディングにしていた彼のベッド

ついに シーツを剥がして、洗濯です。

布団類もすべて 陽にあてて、もう彼の香りはどこにもありません。

そして 娘が到着してからも、

彼女の大量の持ち物を整理するために、

大々的に 3男の部屋の改造をしました。

すると、出るわ出るわ、捨てられなかったものの山。

でも 「コレはもう要らないよね」 という娘の明るい言葉に、

なんだか区切りをつけなくては、次に進まなくては、と

自分が背中を押されるのです。

これも何かのきっかけだったんでしょう。

こんなことを繰り返して、

できなかったことに手をつける、

見たくなかったものとも相対することになるんですね。

すると悲しみの色もだんだん違ってくるような気もします。

まるで 悲しみの上に、薄いベールを被せていく作業なのかもしれません。

悲しみは決してなくならないけれど、

それがお伽噺の世界に包まれていくような感じなのです。

 

 

 

  自死遺族・死別