kazuのブログ

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サラリーマン社長のムービートラベル

首は~飛-ぶ飛ぶ~。北野武監督初の戦国時代劇「首」。さすがです、観たくないものを鮮烈に観せてくれます。冒頭、織田信長に反旗を翻した荒木村重を攻める信長軍、有岡城攻め。小川に累々と横たわる首が切り落とされた兵士の遺体。惜しげもなく断面をスクリーンに映し出す。ああ、やっぱりリアル。だけでなく切り取られた断面から川蟹が...。流石はたけしワールド、凄いわ。そのあとはまあ首が飛ぶ飛ぶ...。「黒髭危機一髪」っていうんですか?あの樽に棒を差し込んだら人形がぴょーんっと飛び出す奴。あれ見てるみたいでしたわ。なんかもうそれがリアルでリアルで。映画の技術が進歩すればするほどなんとも無残なシーンもえげつないほど現実のように見えてくる。今まで星の数ほど映画、テレビ、舞台で描かれてきた「本能寺の変」。その「本能寺の変」に新説!黒幕は羽柴秀吉。筋書きを描いたのは黒田官兵衛。そして筋書きのネタは織田信長、明智光秀、荒木村重の三角関係のボーイズラブ!遠藤憲一が出てるからおっさんズラブ、まあ少々げんなりはしますが役者のキャスティング、使い方、うまいですねぇ。

天下統一を目指す織田信長はまさに破竹の勢いであった。だがそんな信長に反旗を翻した荒木村重の城、有岡城は兵糧攻めと猛烈な織田軍の攻勢の中、落城寸前だった。そしてなんと村重は一族郎党、家臣を残し城から逃亡。遂に有岡城は落城する。捕らえられた一族郎党は女子供、妊婦、赤子に至るまで首を跳ねられる。愛妾、森蘭丸を側に置き行く手を阻むものたちはすべて「殺してしまえ」と吠える信長の姿は羽柴秀吉、明智光秀ら家臣の目から見てもすでに常軌を逸していた。信長は家臣一堂に村重を「生かして俺の前へ連れて来い!」と命じた。信長の座を狙う秀吉は千利休の元で働く元忍びの「芸人」曽呂利新左衛門を雇い入れ荒木村重と盟友であった明智光秀の身辺を探らせた。千利休に捕らえられた村重を引き渡された明智光秀は密かに彼を匿っていた。それどころか光秀と村重は長年の男色関係にあったのである。秀吉は軍師官兵衛に一計を案じさせ、信長と光秀を破滅の道へと導こうとする。曽呂利新左衛門は道中で拾った秀吉に憧れる百姓、茂助を配下に置き、毛利討伐に赴いた中国の秀吉と京に居る信長の間を暗躍する。天正十年六月、天下を揺るがす大事件が起きる。

 

このビートたけし、北野武と言う人を見てて思うんやけど彼の昔の漫才のような激しい動きはせんのよね。彼のやってるテレビのニュース番組や討論番組を観ててもあんまりしゃべらん。どっちかっていうと彼の周りにいるコメンテーターやゲストが大いに怒り、激論を戦わせているところにちょいちょい茶化したり、合いの手を入れたりして自らがいわゆるスパイスになっています。この作品も一緒、もうこの作品で一番の役得は何と言ってものは加瀬亮演じる織田信長。あの猛烈な尾張弁とぶちぎれた演技でスクリーンの中狭しと暴れまわっています。そのぶち切れぶりに耐える明智光秀・西島秀俊を影で観ながら、つい立の向こうで元忍びを演じるキム兄こと木村祐一と漫才。一見してあんまり目立たずおとなしいんやけど結局は主役は秀吉なんやねぇ。これが何とも不思議。

まあ、男色、色道と言うのは戦国時代にはよくあったこととされています。実際ほんまに信長は男でも女でも「二刀流」やったらしいとのこと。観ている間ふっと思うたんですがこの作品、映画に花を添える綺麗な女優さんが出ていません。女性は殆んどエキストラ。女優と呼べるのはババアのくノ一、柴田理恵くらい。それだけ男、男、男だけの世界を演出したかったんやろうね。男だけの世界って言えば、男のロマンていう風な、なんか硬派なイメージなんやけど、まぁ全くちゃう意味でね。

この作品ではことのきっかけとして荒木村重の謀反と言う風に描かれていますが、勇猛果敢な武士として家臣団からも配下の武将からも見られていたようなんですが結果として家臣、一族郎党、家臣の家族に至るまで見捨てて自らは城を抜け出すと言う全く卑怯の極致の、生への執着を見せた武将となりました。有岡城落城後は重臣36名、荒木一族の妻子122名幼子に至るまで京都六条河原で惨殺、その他関係者600人余りを磔刑、火刑と言うもうホロコースト状態。そして当の荒木村重はと言うと本能寺の変以降も茶人として生き残ったそう。なんじゃそりゃと言う生涯です。しかし自らを「道糞」(どうふん)、要するに道に転がっている人や犬のウ〇コと名乗り恥辱にまみれて生きる道を選んだのはせめてもの殺された者たちへの罪滅ぼしなのでしょうか?うーん、歴史は我々が考えているよりはずーっと闇が深いようです。

 

先週は空港での仕事で一週抜けてしまいました。しっかし関空は無茶苦茶やった。殆んどは外国人です。まあこんなこと旅行社が言うのはなんやけど入国制限が必要です。インバウンドで辛うじて旅行社は生き残っているのが現状やけど日本の観光客、アウトバウンドに迷惑が掛かります。しかもカウンターに並ぶ航空会社の看板はLCCばかり。これどうなんでしょうかねぇ。あれもこれも乗り入れを許可すんのもどうかなー。こんなんばっかに頼っていると旅行社は本当に駄目になるよー。追い打ちをかけるように中国ではまた変なウイルスだか病原体が流行っているそう。北京の小児科は24時間待ちやて❔中国だけでも入国制限して。心配です。

 

 

 

 

何なのかね?この違和感。アジア諸国を一括りにして「ニューアジア」などと呼ぶ、この違和感。さすが白人至上主義者アメリカの作った映画。AIが世界を征服する、人類を支配する、核戦争を起こす。ここまでのキーワードなら思い浮かべる映画は一つ。「ターミネーター」ですよね。ところがこの作品「ザ・クリエーター/創造者」はことに制作・脚本・監督を務めたギャレッドエドワーズはこのことを「チープだ、ナンセスだ」と言います。そこでAIが台頭してきた世界を欧米諸国VSアジアAI連合の構図を創り出しました。時は近未来、何が正義で何が悪なのか。AIを悪とする欧米諸国とAIを友人、家族として慕うアジア人たち。そこで黒人捜査官の心が揺れる。「最終兵器」と呼ばれる一人の幼い人間の姿をしたAIの少女(男の子と思っていたけど)。私が一番困惑したところはチベット寺院を破壊しAIのチベット僧を虐殺するのはアメリカ人です。これなんかの忖度?それともどっかの国への当てつけ?

近未来AIは進化を続け人類に溶け込み家族、友人のように思えた。だが...。

2055年反乱を起こしたAIがアメリカ・ロサンゼルスに核攻撃。100万人の被害者を出す。アメリカを中心とした西洋各国はAIの存在を危険視し利用を禁止、殲滅をする政策をとることになった。しかし「ニューアジア」と呼ばれるアジア圏の人々は人間の姿に造られた「シュミラント」と呼ばれるAI達と共に共存共栄路線ををとる。かくして欧米諸国対ニューアジア・AI連合の図式が出来上がりその激しい戦闘は10年間も続くことになる。

2065年アメリカの潜入捜査官ジョシュアはニューアジアのリゾート地で子供を身ごもったマヤとともに暮らしていた。彼はニューアジアのシュミラント捜査官ハルンに協力するふりをして潜入捜査を続けていたがある日、彼の意に反してアメリカ軍が急襲。「ノマド」と呼ばれる都市型兵器で一帯を殲滅。マヤが死亡したと確信したジョシュアは失意のままアメリカへ帰国した。

5年後、世界情勢は欧米諸国優勢に進んでいたがニューアジアは戦況を一気に逆転できる破壊兵器「アルファー・オー」を開発。情報を摑んだアメリカ軍は強硬派ハウエル大佐の指揮の元、現地の状況を知るジョシュアを隊に加えようとした。渋るジョシュアにマヤが生きている情報を与え連れ帰ることを条件に同行させた。任務は「アルファー・オー」の破壊とそれを作ったと言われる創造者ニル・マータの暗殺。現地に潜入したアメリカ軍はアルファー・オーの位置を確認したが潜入した部隊で「アルファー・オー」にたどり着けたのはジョシュアだけだった。だがジョシュアが目にした「アルファー・オー」は幼い少女の姿をしたシュミラントだった。ジョシュアはハウエル大佐の「破壊せよ」と言う命令を無視して「少女」を連れ出す。戸惑うジョシュアとAIの少女の逃亡の果ては...。

 

この作品の作り手たちはアメリカ悪VSアジアAI連合善の構造で描いています。この物語はAIと言う人類の進歩の成れの果てを描きながら現代に巣食う差別問題を描いています。差別される側、アジア人と共に将来こうなればAIも同様になりますよと描いていると思うんですがいかがでしょうか?そしてその間で揺れ動いているのがもう一方の差別される側の黒人なんですね。この元潜入捜査官を黒人俳優ジョンデヴィットワシントン(名優デンゼルワシントンの息子さん)がキャスティングされたのがよくわかります。しかしねぇアジア諸国を一括りにしてニューアジアですか...。なんかねぇ、差別だなんだかんだ言うてるのがねぇ、違和感感じます。それに加えてこの作品にチベット僧らしきAIが出てくるんですわ。これを平気で殺戮?破壊?するのがアメリカ人。中国人やなくてね。これもまた違和感。この作品やっぱり中国資本入ってんのん?と思ってしまいました。自分の思考が偏ってんのかな?とも思ってしまいますが...。中国に対する当てつけならそれは良し、しかし忖度してんのならなあ。けどね「ターミネーター」では人類に反旗を翻し世界を征服しようとするAIに戦いを挑む人々を描いています。映画は時代を反映します。この作品の意図、半分当たっていますよね。AIに仕事半分奪われてません?

今の世界。でも本作の様に一方では進化したAIと共存する姿が描かれていますよね。こういう考え方もあるんやと思いましたね。

しかし本作、先日日本一になったタイガースの熱狂的ファン渡辺謙が出演しています。日本シリーズ7戦全て観戦し、ローカル放送に出まくっていた、ただの阪神ファンのおっさんが一方ではハリウッドスター、ケン・ワタナベとして大スクリーンに登場する。この違和感もまた凄い!しかしこういう違和感はなんかうれしいねー。

 

 

 

 

 

 

 

 

ゴジラ映画だけは日本がいい!アメリカでキングコングと戦わせたって、どうせアメリカ出身のキングコングを優勢にしようとする。前作の「シン・ゴジラ」非常に評判がよかったですね。だれもが絶賛していました。ですがね私は天邪鬼、あんまりいいと思わなかった。我らの英雄ゴジラを芋虫みたいにしてどないすんの?起承転結うまくまとめみたいけどなんかあんまり感心しなかったね。キャスティングも長谷川博己の内閣官房副長官はいいとして石原さとみの日系人のアメリカ特使?あの顔はどう見ても純血の日本人やで。とまあ、評判の良かった前作をどうのこうのいってもしゃあないんですが、今回の「ゴジラー1.0」。ようで来てますわ。これはお奨めです。-1.0ってどういう意味か?舞台は第二次世界大戦終戦直後。日本は敗戦国です。焼け野原になった日本にゴジラが上陸します。焼け野原になって全くなにもなくなって「0」になったところにゴジラ、敗戦直後にゴジラ。それによって「0」が「-1.0」になると言うわけ。それでも日本人は戦うんよね。敗戦直後はすべてGHQ(占領軍)主導で政治も何もかもが運営されていて日本政府が全く機能してません。勿論、軍隊は解体されてありません。自衛隊だってまだできてません。日本軍が残した武器を取って戦うことはGHQが許しません。ほな占領国が戦ってくれるんか?戦ってくれるわけがない。なんでよその国、しかもつい最近まで戦争してた国のために命を投げ出さなあかんの? とマッカーサー大元帥閣下もそそくさと逃げてしまい張ります。腰抜け!アホ!こう言う奴です。日本政府は何もできません。ゴジラが銀座の町をぶっ壊すのを観ているだけです。そこで立ち上がったのはだれか、民間人なんですね。終戦直後の日本にハイテク技術はまだありません。じゃあどうやって戦うのか?わが民族は強くて賢いんですて!

1945年(昭和20年)第二次世界大戦末期。小笠原諸島近海に浮かぶ大戸島守備隊基地に一機の零戦が着陸する。乗員は特攻隊の敷島浩一少尉。機体の故障で整備に立ち寄ったと言う。だが機体には故障個所はなかった。ベテラン整備士・橘宗作は特攻隊員であるはずの敷島が死にきれず故障を口実にここへやって来たのだと悟ったが別段責めはしなかった。日本の敗戦は火を見るより明らかだった。今更、無駄死にして何になる...。その夜、整備兵たちと共に島で一夜をすることになった敷島だが、突然大きな雄たけびと共に見たこともないような巨大な生物が姿を現した。整備兵の一人が叫んだ。「あれは島民たちが呉爾羅(ゴジラ)と呼んでいる奴です!」整備兵たちが襲われるのを見て橘は敷島に零戦に搭載している20ミリ機関砲で応戦してくれと依頼する。だが巨大な怪物を前にして敷島は手が震え撃つことができなかった。かくして大戸島の守備隊は敷島と橘以外は全滅した。機関砲を発射できなかった敷島に橘は怒りをぶつけた。

まもなく終戦を迎え、敷島は実家の東京に帰ってきたが東京は空襲で焼け野原となり実家も瓦礫となっていた。近所に住む澄子から両親が亡くなったことを知らされる。子供を空襲で無くした澄子は無傷で帰ってきた敷島を見て「お前たちが負けたからだ」となじった。バラックを立て取りあえず住まいを整えた彼はある日、闇市で赤ん坊を抱えた大石典子と言う若い娘に出会う。成り行きで一旦家へ連れて帰ったが典子と赤ん坊は敷島のバラックへそのまま居ついてしまうこととなった。聞けば赤ん坊は空襲で死んだ身も知らない母親から託された孤児だと言う。敷島は三人が暮らしていくため戦時中、米軍が日本近海に残した機雷を撤去すると言う危険な仕事に就く。典子は心配したが危険な仕事のため報酬がよかった。敷島が機雷撤去のため乗り込む特設掃海艇には艇長の秋津を始め、元技術士官の野田と若い乗組員・山田が同乗し気心の知れた仕事仲間となった。たちまちのうちに暮らしは良くなり、最初は冷たかった澄子も子供の面倒を見てくれるようになり典子も銀座へ働きに出ることができた。だが暮らしは楽になっても敷島は大戸島の出来事が毎晩、悪夢となって彼を苦しめる。彼の中の戦争はまだ終わっていなかった。

1946年米軍による核実験がビキニ環礁で行われた。そしてそれからしばらく後、太平洋で米国の船舶が謎の巨大生物による襲撃を受けると言う事件が多発した。そしてその事故現場は段々と日本近海に近づいてくる。敷島は大戸島で出会った怪物に違いないと感じた。そんな中、敷島たちが乗る掃海艇に命令が下る。近海に出てその巨大生物を足止めしろと言う。海に出た彼らの前に現れたのは核実験の放射能を浴び、巨大化したゴジラの姿だった。機銃や撤去した機雷を駆使した攻撃も使い古された掃海艇では歯が立つわけもなく、助けに駆け付けた重巡洋艦の砲撃さえもびくともしない。それどころか巡洋艦に飛び掛かり簡単に沈めてしまうとゴジラは深海に消えた。4人を乗せた掃海艇は命からがら逃げ帰る。帰り着いた敷島らが訴えるも政府は混乱を恐れ国民にはひた隠しにする。戦後GHQが全権を持つ何も機能しない日本政府では成す術もない。軍隊を解体され、まだ自衛隊さえも持たない日本では兵器を使うことは許されない。頼みはアメリカ軍の軍事力だが他国のしかもつい最近まで戦っていた国の国土を守ることなどしてくれるはずはない。しかもソ連との冷戦がはじまり兵器を使うことに関しては非常に慎重である。マッカーサーはそそくさと逃げてしまい、日本は丸裸同然でゴジラを迎え撃たなければならなかった。

翌日、遂にゴジラが東京湾に上陸する。ゴジラは品川、銀座と復興を始めた街を破壊し続ける。銀座に働きに出た典子の身を案じた敷島は銀座に駆け付け典子を助け出すがゴジラが吐き出す熱線から逆に敷島を庇った典子は吹き飛ばされてしまう。ゴジラが去った後の東京は無残なものだった。残るのは瓦礫の山と大量の放射能。日本人は絶望し、敷島は悲しみのどん底に叩き落された。日本政府が全く機能しない中、民間人や大戦を生き残った元軍人たちが立ち上がる。ゴジラ掃討作戦を打ち立てたのは敷島の仕事仲間、野田であった。学者の彼が考え出したのはフロンガスの泡でゴジラを相模湾の深海に沈め水圧の変化で倒すと言うものだった。この作戦に多くの元海軍兵と民間会社も参加してくれた。艇長の秋津も船に乗り込む。元特攻隊員の敷島は唯一残っていた零戦に乗込みゴジラを誘き出す役を買って出る。彼は残された血のつながらない幼い娘を澄子に託し零戦に乗込む。立ち上がった人々に残されたのはわずかな接収艦とたった一機の零戦、そして日本人の持つ知力と勇気。日本国土を守ろうとするその前に遂にゴジラが再上陸する...。

 

敗戦直後の日本に現れたゴジラ。人々は絶望します。どん底に叩き落されます。そんな中で立ち上がる姿はよかったですねえ。私は正直、「シン・ゴジラ」よりこっちの方が好き。「日本称賛映画かい」と言うなかれ、戦後日本を復興させた日本人の姿が素晴らしい。

しかし映画と言うのは時代、世相を反映しますねー。「シン・ゴジラ」が公開された当初は安部政権真っ只中。政府主導のゴジラ掃討作戦。まっ、途中で首相、防衛大臣ら主要閣僚はみんな死んじゃうんやけどね。残った副官房長官ら若い政治家たちが見事な舵を切ります。で、最低の支持率を爆走する現岸田政権、まさにこのアホ政権を象徴するような敗戦直後、GHQのお伺いをいちいち立てなければ何もできなかった「全く機能しない」日本政府が今の政府にダブって見えます。主演の敷島を演じた神木隆之介と典子を演じた浜辺美波が育てる戦災孤児の女の子がよかったねー。泣き方が妙にリアル。神木くんのことを「お父ちゃん」と呼ぶんやけど彼は「違うよ」と言う。敗戦直後の国民の悲しみやどうしようもない悔しさやいらだちが伝わって来ます。彼はこの娘に対する愛情も感じながらも大戸島で見殺しにしてしまった整備兵たちのことが頭から離れない。幸せを感じながらも幸せになることに罪悪感を感じる。帰還兵の方たちにはそういう方々が多かったんやと思います。我々はそんな先人たちのおかげて生きているわけで...。

ゴジラが初めてスクリーンに登場したのは1954年(昭和29年)です。時代背景で言えばこの作品はそれよりまだ9年前の話です。当時実況のアナウンサーが「ゴジラがこちらにやってきます!私はもうだめです!皆さんサヨウナラ!」と命を懸けて実況するシーンが今となってはちょっと笑ってしまうのですが70年近くたった今でも、そんなオマージュがこの作品にも出てきます。だから原点を描いた作品とも言えるのかな?どの時代もゴジラと言うのは核実験の影響で生まれた怪獣と言うことで一致しています。反核運動の中から生まれたとも言えます。日本は世界で唯一の被爆国です。当時の時代背景で言えば戦後から9年。ようやくアメリカに対して嫌味の一つも言えるようになった時代だったのかなとも思うとなんか感慨深いですね。私がまだちっちゃい頃、両親やおばあちゃんに連れて行ってもらったゴジラ映画はもうすでにシリーズ化されていて「ゴジラ対◌◌」って言うようにもう完全にゴジラは善玉で映画自体はお子様向け。それが今や「ハリウッドスター」です。時代は変わるもの。けどやっぱりこのキャラクターだけは日本で描いてもらいたいと思います。