幕末好きの私は函館に来るとどうしても歴史スポット探索したくてうずうずしてしまいます。特に新選組土方歳三の活躍は胸躍るものがありますので函館の土方歳三史跡巡りに期待します。函館は既に3回は訪れていますので鉄板の観光巡りより史跡巡りに時間と取りたいと考えます。
朝の函館駅です。まず駅から歩いて行ける土方歳三の大事なスポットを訪れます。
駅の横には土方歳三ゆかりの新選組の「誠」が記された大きな提灯が下がっていました。テンションが上がりますね。
最初のスポットですが函館駅からすぐ道路からは分かり難いのですが総合福祉センターが目印です。
ここの公園に土方歳三の案内塔を見つけました。
ここ一本木関門が土方歳三が壮絶な死を遂げた場所と伝わります。五稜郭から弁天台場で孤立した仲間を救うべく馬で駆けた土方がここで狙撃され命を落とした場所です。
土方歳三はまだ35歳、多摩から京都、関東、東北、北海道と剣一筋で戦い続けた人生でした。
土方歳三最期の地についての案内です。この箱館が死に場所になってしまいました。
次に函館市街から離れますが道道83号線を車をとばして土方歳三も逗留した川汲温泉をめざします。
市街から約45分、川汲温泉の入口が見えてきました。
この辺りは季節も進み紅葉に覆い尽くされており何とも趣があります。
ロビーもとても雰囲気のある温泉宿です。宿泊もできる施設です。
これから先は撮影できませんが浴槽が二つあっていずれも無色無臭の単純温泉です。かつて冬の極寒の中鷲の木に上陸した旧幕府榎本軍は二手に分かれて五稜郭を目指します。その際に土方歳三隊はここ川汲を通って五稜郭を向かった際この川汲温泉に逗留したと伝わります。真冬の行軍で凍えた体をここで温めて英気を養ったのでしょう。
川汲温泉の歴史についてですが18世紀初頭から開湯していたことに驚かされます。名湯ですね。
土方歳三がこの地に逗留したことは間違いがないようです。何か土方の遺品みたいなものがあればと思いましたが残念ながら残されては無いようです。ただ土方も入った同じ湯に約150年後に我々入れたと思うと彼の生涯に一層の思いを馳すことができます。
川汲温泉の歴史を写真で偲ぶことができます。
散策していましたら旅館の外にも箱館戦争川汲戦の慰霊碑も存在していました。合掌。
冬の間は深い雪に閉ざされてしまう川汲でしたが路線バスがありますのでこの名湯を目指して訪れることができます。
川汲温泉からまた函館市街に戻り函館山の麓を訪れました。函館八幡宮ですが古くから函館の街を見守ってきた由緒正しい神社でおそらく箱館戦争の際もその惨劇を見続けてきたと思います。
厳粛な気持ちでお参りさせていただきました。
そして八幡から歩いてすぐになりますが神聖な場所に向かいます。私は函館に来ると必ず立ち寄りたくなります。
山の中の階段を進み目標の場所を目指します。
見えました、碧血碑です。箱館戦争で戦死した旧幕府軍の戦死者が約800名が埋葬されている場所で一説には土方歳三も併せて埋葬されたのではという話もあります。
碧血とは「義に殉じて流した武人の血は3年たつと碧色になる」という意味を持つ中国の故事からきています。
碑石は7回忌にあたる1875年に大鳥圭介や榎本武揚らの協賛を得て東京から船で運ばれたもので、碑の題字は戦争当時陸軍奉行の大鳥圭介の書といわれています。今でも違う空気が漂っていて本当に藪の中から兵士が飛び出てくるような怖い殺気を感じます。
また箱館戦争で戦死した旧幕府軍の戦死者は当初新政府の命により埋葬を許されなかったがその惨状を見かねた侠客柳川熊吉が遺体を集めて埋葬したと伝わります。
最後に五稜郭の中のパワースポットを訪れます。
土方も籠った箱館奉行所の横からの撮影しますと五稜郭タワーと対比が面白いです。
こちらは兵糧庫ですが建築当初の木材を可能な限り再利用して建てられました。その敷地裏に秘密のパワースポットを訪ねます。
兵糧庫の裏に一本木がありますがこの起伏の辺りに土方歳三が埋葬されていたのではと言われています。
一本木関門で死亡した土方が五稜郭に運ばれた際に敵に奪われないよう五稜郭内に埋葬されたのではという説があるのですね。確かに激しい戦争のの最中ですから外に運ぶのも困難でしょうし一旦五稜郭内の身近に埋葬したという説は説得力があると思います。とにかくここでも合掌いたしました。
後ろ髪を引かれつつ五稜郭を後にします。土方歳三と大鳥圭介が見送ってくれました。
150年経った現代でも土方歳三の息使いが聞こえてくるような函館の足跡の数々でした。また何度でも訪れたいです。いつ来ても時間が足りなくなります。






























