ひらめき今回は、アメリカの占領下にあった日本が、講和・独立への道をどのように進んだのかを勉強しますが、講和っていったいなんでしょう。

講和とは、戦争や対立状態にある国家や団体が、互いの意見や利益を調整し、平和的な解決を図ることを指します。敗戦後日本は、アメリカの占領下にありましたが、太平洋戦争で戦争状態にあった国々との講和は、まだできていなかったのですね。

 

1950年2月、ソ連と中華人民共和国は、軍事同盟と経済協約を約した中ソ友好同盟相互援助条約を結びました。ソ連も東西冷戦が明確になり、アメリカとの全面的な武力対立に備えなければならない事情がありました。また、建国間もない中華人民共和国は、台湾の国民党政権がアメリカの支援を受けて中国に反抗しないかという緊迫がありました。条約は仮想敵国として「日本または日本の同盟国」と規定し、名指しこそしないもののアメリカへの対抗を主な目的としており、期限は発効後30年でした。

中華人民共和国は、この条約によって当時のソ連の最新鋭兵器だったジェット戦闘機など近代的な軍備を手に入れ、条約になかった原子爆弾製造技術の協力も得ることとなりました。

6月に始まった朝鮮戦争でこの条約は、ソ連が米国との全面衝突を避けるために中国を介して、朝鮮民主主義共和国(北朝鮮)を間接的に支援する根拠に利用されました。

 

単独講和への道

朝鮮戦争(1950~53)で日本の戦略的価値を再認識したアメリカは、日本を西側陣営に取り込むため、ソ連などを除外した西側諸国との講和条約を早く結びたいと考えるようになった(単独講和)

日本国内では、「世界が冷戦で対立する中で、一方とだけ講和してよいのか、平和憲法の精神を忘れたのか、日本は中立国になるべきだ!」など、ソ連・中華人民共和国を含む全ての交戦国との講和(全面講和)を求める声も強くあった。

 

第三次吉田首相は、アメリカと講和の交渉をするにあたって、軍備は必要最低限にし、経済復興を優先・実現するため、基地を提供する見返りに、独立後の安全保障をアメリカに依存する単独講和の道を選択した。

1951年1月、アメリカのダレス外交顧問との交渉では、日本の再軍備を求められた。吉田は日本国憲法第9条があること、諸外国の反発もあること、日本には軍事費を出す余裕がないことなどを主張した。しかし、将来的には再軍備を約束することとなる。

講和からソ連を除外すること、講和後も米軍が日本に駐留することを条件に準備は進められた。

 

サンフランシスコ平和条約の調印

(平和条約とは、戦争状態にある交戦国間の戦争を終了させる目的で結ばれる条約であり、戦後の両国間の領土、お互いの立場、賠償などについても確認し合う目的もある。)

1951年9月8日、アメリカのサンフランシスコ、オペラハウスにて、サンフランシスコ平和条約が調印され、日本と連合国48カ国との戦争状態が終結した。これにより日本は再び独立し、戦争した国々との国交も回復した。

【日本国との平和条約に署名する吉田茂首席全権と全権委員】

しかしソ連は会議に出席したが、アメリカ軍の駐留継続に反対する姿勢から条約に署名しなかった。チェコスロバキア、ポーランドも同様である。中国(中華人民共和国・中華民国の2国とも)、大韓民国は、講和会議に招かれなかった。招待されたインド、ビルマ、ユーゴスラビアは欠席した。

 

この平和条約により、日本に占領された国はそれぞれに日本に賠償請求できる権利を有したが、実際にその権利を履行したのはフィリピンとベトナムだけだった。

沖縄などの南西諸島や小笠原諸島は、引き続きアメリカ統治下に置かれることになった。

 

また、サンフランシスコ条約にソ連が調印しなかったことや中国・韓国が招かれなかったことで、日本との間の北方領土や尖閣諸島、竹島が、今も解決に至っていない領土問題となっている。

 

真顔北方領土問題・・サンフランシスコ条約では、日本は千島列島と南樺太を放棄しました。しかし、放棄した千島列島には日本の領土とした北方四島(歯舞、色丹、国後、択捉)が含まれていませんでした。

サンフランシスコ条約にソ連は調印をしていないので、日本はサンフランシスコ条約上の権利を主張することができません。そのため、今日まで北方領土問題を残すことになっています。

 

尖閣諸島・・日本の領土として、サンフランシスコ条約によって沖縄と共にとアメリカの管理下に置かれました。その後、沖縄が返還された際に尖閣諸島も返還。沖縄県間協定によって返還された地域に尖閣諸島も含まれていました。しかし、サンフランシスコ平和条約に招かれなかった中華人民共和国は、サンフランシスコ条約の解釈に縛られないという立場をとり、石油資源豊かな海域にある尖閣諸島を自国の領土であると主張しているため、日本との間に領土問題が生じています。

 

竹島・・サンフランシスコ平和条約の策定段階でアメリカに対して韓国は、日本が竹島を放棄するように求めましたが、これをアメリカは受け入れませんでした。現在までに韓国側が竹島に自国の駐留部隊を上陸させたり、日本の海上保安庁の巡視船を銃撃したりするなどの出来事が起きており、解決に至っていません

 

日米安全保障条約(安保条約)の調印

サンフランシスコ平和条約によって、アメリカは日本を独立させたが、それは占領軍の撤退をも意味していた。日本国内に米軍基地を確保する必要があった。サンフランシスコ平和条約が結ばれた日、米軍の日本駐留と将来の再軍備を定めた日米安全保障条約(安保条約)が調印された。

【単独で条約の署名に臨む吉田茂(1951年9月8日)】

安保条約は、まず「極東における平和と安全」のため日本が基地を提供することを取り決めている。つまり、日本だけでなく、より広い東アジアの安全と平和のための米軍駐留だった。たとえば、朝鮮戦争のような事態が起こった時、在日アメリカ軍を使えるようにするものだった。

また、日本が日本の防衛のために責任を負うことを期待していた。(これによって、自衛隊ができることになる。現在の米軍基地の問題と、自衛隊の問題はここに始まりがある。)

さらに安保条約では、国内の内乱を沈めるためにアメリカ軍の出動を認めている。つまり日本国内での内乱に米軍が介入し、アメリカ軍がその気になれば日本の反政府運動を武力でつぶすことができる。

日本は独立国になっても、安全保障の面でかなりアメリカの意見を取り入れざる負えなかった。アメリカが日本を必ず助けるとは決められておらず、日本にとっては不平等な条約であった。

 

真顔安保条約は、日本が独立後もアメリカ軍が日本に駐留する事を認めた条約でした。吉田茂は「日本は軍費ではなく、経済発展にお金を使うべき」と考えて、この条約を締結しました。結果的に軍事費を抑えることができ、日本は驚異的な速度で戦後復興を遂げました。一方では、アメリカが日本に対する防衛義務は明言されていないなど、極めて不平等な一面もありました。この安保条約が締結された当初から、不平等な条約を改正する必要があるとの意見があり、時の首相吉田茂の判断は、功績だったのか、日本の従属支配を形作ったのか、議論は分かれています。

 

1952年4月、サンフランシスコ平和条約・日米安保条約が発効し、GHQが廃止された。マッカーサーはこの前年の4月、朝鮮戦争の休戦をめざすトルーマン大統領に対し、北朝鮮を支援する中国・ソ連への攻撃を主張し、連合軍最高司令官を解任され、日本を去っている。


ひらめき1949年、日本に素晴らしいニュースが飛びこんできました。

物理学者の湯川秀樹が現在の物理学の中心となる原子物理学の理論を研究して、日本人として初めてのノーベル賞(物理学賞)を受賞しました。まだ占領期の日本人は、大変勇気づけられました。

【湯川秀樹1949年】

 

水泳選手の古橋廣之進は、フジヤマのトビウオと呼ばれました。1948年、12年ぶりに第二次世界大戦後、初のオリンピックがロンドンで行われました。しかし、敗戦国であるドイツや日本の選手団は参加を認められませんでした。日本水連はオリンピックでの競泳競技と同じ日程で日本選手権を行い、1500m自由形で古橋が記録したタイムは18分37秒0(金メダルの19分18秒5)、400mでも4分33秒4(金メダルの4分41秒)で、当時の世界記録も大幅に上回るものであり、「幻の金メダル」と呼ばれています。ただし、日本が当時国際水泳連盟から除名されていたため、古橋の記録は公認されていません。

 

占領期の日本におけるポピュラー音楽は、外来音楽を受容・消化・発展することによって、今日の隆盛に至ったと言えます。敵性音楽として規制されていたジャズやダンス音楽も復活。

「リンゴの唄」が全国的に広まる。 笠置シズ子の「東京ブギウギ」が大ヒット。古賀メロディーの代表作「湯の町エレジー」「青い山脈」「銀座カンカン娘」「上海帰りのリル」、江利チエミの「テネシーワルツ」。明るくのびやかな大衆文化が広がりました。

美空ひばりは幼いころから歌がうまく、12歳で映画デビュー、戦後の日本に彼女の歌声が響きました。

【美空ひばり『悲しき口笛』1949年)】

 

手塚治虫のデビュー作『新寶島』は、ベストセラーになりました。映画的な構成とスピーディな物語展開をもつ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられています。

 

1950年に制作された黒澤明監督の『羅生門』は、海外で第12回ヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞、第24回アカデミー賞で名誉賞(現在の国際長編映画賞)を受賞し、これまで国際的にほとんど知られていなかった日本映画の存在を世界に知らしめ、世界中の映画関係者たちから尊敬を集めました。

【1950年(昭和25年)の劇場公開時のポスター】

 

知っている名前が続々と出てきて、今につながる歴史が紐解かれていくようです。

次回は、安保条約締結後の日本について勉強しましょう。

今回も、長い文章を読んで付き合ってくださって、ありがとうございました。

【使用した画像などは、ネットからお借りしました。ありがとうございました。】