大杉勝男(東映→日拓→ヤクルト)前編 | 魑魅魍魎のブログ

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とりあえず、いろいろ書いてます。
特にこれといった特徴はありません…。

私にとっての、史上最高のプロ野球選手…といえば、
この「大杉勝男」以外には存在しない。

彼の存在を知ったのは、私がまだ小学生の頃。
野球少年で、大のヤクルトファンだった私…。
しかし、
当時のヤクルトは…とことん弱かった(涙)

監督でいえば、「土橋→武上→関根」時代である。
わかる人にはわかるでしょう。
万年Bクラスですよ。

しかもこの時期、なぜかドラフト1位で獲得した選手が軒並み活躍しない。
本当に、呪いにでもかかってるんじゃないか?…というほど弱かった。


しかし、そんなヤクルトスワローズが、たった一度だけ優勝したことがあるらしい。
しかも日本一に輝いている。
当時はインターネットなんて当然ない。
大好きなプロ野球年間にそんなデータを見つけたのだ。

時は1978年…。 おおっ!俺が生まれる前じゃないか!
そして、そこでMVPを獲得した選手の名を見つけた。
大杉勝男。
・・・何者だろう?この人?

当時、アニメ「がんばれタブチ君」というのがあって、
そこに、当時のヤクルトスワローズから、
ヤスダ君(おそらく安田投手がモデル)
オオヤ君(たぶん大矢選手がモデル)
ヒロオカ監督(もしかしたら広岡監督がモデル)
…などのキャラが登場していたので、それは知っていたのだが…。
残念ながら、オオスギ君の存在は知らなかった。

しかも、そのシリーズで、当時のシリーズ記録の4本塁打を放ち、
新記録の10打点を放ってのMVP。
「いったい、どんな選手なんだ??」
もう、大杉勝男というのは、この日から私の伝説になった。

しかし、何ということだろうか…。
そのヤクルトスワローズが、野村監督の元、V2へと走り続けている最中…。
私はスポーツ新聞の中に、その大杉勝男氏の訃報を見るのであった。

その時の衝撃は忘れられない。
伝説の英雄が・・・まさに伝説のまま、消え去ってしまった瞬間だった。


しかし、それから20年以上が経ったが。
私はまだ大杉勝男という選手の背中を追い続けている。
調べれば調べるほど、この選手の凄さに圧倒される。

歴代本塁打・打点共に第9位というその記録もさることながら、
野球小僧がそのまま大人になったような純朴なエピソードの数々。

漢気溢れるライバルとの死闘、乱闘の「心優しき暴れん坊」。
茶目っ気のあるファンサービスと、常にその胸にあった家族愛…。
そして…。
「去りし夢 神宮の杜に かすみ草」

 そんな大杉勝男氏の伝説を、ここで少しだけ語らせて欲しい。

大杉勝男は、1945年に岡山県で生まれた。
兄の影響で野球をはじめた…。と、時に淡々と紹介されるが、
この兄・正二郎はとてつもない逸材だった。

名門・倉敷工業でレギュラーとして甲子園へ出場。
準決勝まで勝ちあがっているのである。
こんな兄に触発されれば、弟も奮起するだろう。
勝男は、同じく名門・関西高校に入学すると、
新入部員100名を超える中から、いきなりのレギュラー捕手となる。

しかし、大杉の高校野球生活は、まさに不遇の連続であった。

目標であった兄が白血病に侵され、2年の闘病の果てに亡くなる。
「兄の姿をもう一度あの甲子園に再現してください」と手記に遺し…。

しかし、勝男は入部間もなく、連手中にノックバットを後頭部に受け、
脳内出血で入院するという大事故を経験していた。

「人生において、失意の時の苦しみをじっと忍ぶ時、
 その苦しみを味わっている時が、最大の成長期だ」
勝男はそんな父の手紙を何度も何度も読み返していたという。

しかし、そんな兄と父の無念を思って、無理に練習に出ては、
後遺症の頭痛と眩暈に襲われ続ける日々を繰り返す。
結局、大杉は、高校をまったく活躍のないまま卒業
してゆくこととなる。

ここで本来であれば、大杉の野球人生は終わりを告げる。

父もなく、母と弟を背負わねばならない大杉は、
当然、野球を捨ててて就職・・・となるはずだった。

しかし、偶然にも高校の先輩のツテで丸井に入社。
その創設されたばかりの野球部に所属することになる。

ところが、ここでも逆境が大杉を襲う。
わずか2年でその丸井の野球部が廃部。
主に倉庫番として働き、1年間で売ったのは箪笥たった1
棹のみ…という実績。
大杉が丸井に籍を置いていたのは、あくまでも野球の為…。

そこに、監督の勧めで東映フライヤーズ入団テストの話が持ち上がる。
ここで大活躍!…「おぉ!これは素晴らしい、ダイヤの原石か!」と大評判!
「うちのスカウト連中はどこを探していたんだ!こんな凄いのがいるじゃないか」と監督大激怒!
・・・となれば、ドラマチックだが、
実際に大杉のこの入団テストでの評価は、決して高くはなかったという。

しかし、勇者は勇者を知る・・・というか、
東映の打撃コーチであった藤村富美男(『物干し竿バット』の初代ミスタータイガース)が、
「こいつを獲らないなら、俺が古巣(阪神タイガース)に紹介するけど、いいか?」と、
当時の監督・水原茂に詰め寄ったという。
水原も、「お前がそこまで言うのなら、よほどの選手なんだろう」と、採用決定!
・・・と、こういうことなのだという。
これもこれでドラマチックではある。

こうして東映フライヤーズに入団した大杉勝男。

今でこそ、「東映フライヤーズって何?」となるだろうし、
実際、私の世代でも、東映フライヤーズを知る者はほとんどいない。

しかし当時、東映は3年前に日本一を達成し、全盛期でもあった。

当時は映画全盛期。
資金力もあって優秀な監督・コーチを招聘し、
選手としては、エース土橋正幸、いまだに最速の剛速球投手と言われる尾崎行雄。

打撃陣では、後に韓国野球史上初の4割打者となった白仁天。
主将を努めた人格者であり、「ミスター
三塁打」「ミスターフライヤーズ」の毒島章一。
走攻守を兼ね備え、ショートの大橋と共に鉄壁の二遊間を誇った大下剛史。
(彼は後の広島V1時代と、後のヘッドコーチとしての「鬼軍曹」ぶりが有名)
そして、問答無用の3000本安打打者にして、
500本塁打300盗塁の張本勲。

さすがの大杉も、この面々には入団当初圧倒されたという。

しかし、ここで大杉にとって大きな出会いがある。
飯島滋弥コーチである。

(一試合満塁本塁打2本・11打点の記録保持者。首位打者1回)

彼の口から、あの野球史に残る名言。
「月に向かって打て」が生まれるのである。

ちなみに…。

これは思い切ったアッパースイングでホームランを狙え!

…という意味で語られることも多いが、実際は違う。

この名言は9月の後楽園球場、
その延長12回に生まれている。
中秋の名月は大杉から約30度の高さに浮かんでいた。

飯島コーチは大杉のアッパーぎみの振り出しから考えて、

振り切ったバットがユニフォームの肩より上にフォロースルーされる形が、

体の最短距離を一直線に結ぶ理想のスイングだと判断していた。

そして、そのバットヘッドがフォロースルーに移る位置が、

ちょうどその月のある位置だったのだ。


そこで生まれたのがこの名言なのである。

言葉で説明すると難解だが、それをただ「あの月に向かって打ってみろ」

このあたりがプロらしいし、

それを実行し、大打者となる大杉もまたプロ中のプロという感じがする。


ただし、その時の大杉はライトフライに終わり、

試合は時間切れ引き分けに終わっている。