空腹んとき食べなくともいいんじゃ?
空腹んときにね、「食べない」っていう方向性のほうが、なんとなく「自由」なような気がすんのね。

で、空腹んときにね、カネに糸目をつけず高いもんを食う、という選択肢があるのは、知ってるよ。
食べたいときに食べたいものを腹いっぱい食べるという行為がね、そんなにカンタンじゃないことは知ってる。

でもさ、それ古くね? 高度成長期? みたいな。

空腹んときに、本当に本当に「食べたいものを食べる」だったらまだレベル高いけどね。俺ら世代は、その瞬間にホントに食べたいものがカップラーメンだったりじゃがりこだったり、多種多様なわけじゃん。もちろん、並列で、ものすげえ高価な食べ物だったりする可能性もあるわけだけど。
でももはや成金じゃないんだ。もっと自然体でいけるんだよ。


でもさ、食べ物に縛られている状態ってのが俺はホントイヤなのね。
別に一日一食でもまったくかまわん、ぐらいになれたらどんなに自由かと。いや時間的にも。一日で二食ぶん作ったり準備したり食べたりする時間を節約できたらかなり時間を有効に使えるのでは?


そもそも1日三食きっちり食べよなんて誰が決めたんだよ! と逆切れしたくなる。
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[引用]為末大学
「善意で行われていたものが善意を前提にした制度になり、今度は善意の犠牲を求め始める」

(以下、感想)
あのね、土日の顧問とかって基本、不機嫌だから、崇高な犠牲の精神でやってるかどうかアヤしいんだよね。
いつも不機嫌だから子供にも悪影響だと思うんだ。不機嫌だから体罰に発展するんだろうし。

親だって気い遣うんだよ。
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僕の詩を読んでください(笑

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僕の詩を読んでください(笑
題名:一日一善

僕が

定食屋で「ハムカツ1枚追加で!」と声をあげると

「は~い」と気の抜けたおばちゃんの声

すぐテーブルにハムカツが

あれ? 揚げたてじゃねえの?


数分後 カウンターのひとりのサラリーマンが小声で

「ハムカツって追加してもらっていいですか?」と

その1分後 もうひとりのカウンターの学生風の男性が

「ハムカツって追加できるんですか?」と

さざなみのように波紋が


おばちゃんはそういう注文がウザいだけらしいが

僕のひとことで、すくなくとも2人の人生を変えた

そして、ほんの少し店はうるおった

一日一善。
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「おいしい」なんてただの誤差

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「おいしい」なんてただの誤差
たとえばラーメン屋であれば、東京に限定したっておいしいラーメン屋は星の数ほどある。

「ラーメン屋が星の数ほどある」じゃないよ。「おいしいラーメン屋が星の数ほどある」だよ。

で、その「おいしい」の差はただの誤差でしかない。


俺はその事実に気づくのに何十年もかかっているわけだ。

世の中の、星の数ほど存在するラーメン屋は、その「誤差」のためだけに日夜精進しているわけだ。
なぜそんな(一見ムダな)努力をするかといえば、その(単なる)「誤差」が莫大なビジネスを生み出すということを知っているからでしょ。

近所のラーメン屋にふらっといくのも、電車乗り継いでかなり評判の行列のできるラーメン屋にいくのも、結局のところなんも変わりない。
ただし電車乗り継いだり行列するのがムダだとは思わない。やりたければやればいい。


ところで、切り口の違う話になるけど、
自分の中で好きなメニューと「ふつう」「そんなに好きくない」メニューは歴然としてある。

これは、間違いない。そして、「大好き」「好き」「ふつう」「そんなに好きくない」、これらの差は、誤差ではない。
これらは長い人生で培われた明確な「差」。

近所の定食屋でふつうに食べたいメニューを食べるのであれば電車乗り継いで行列して、大好きなメニューを食べたいものだ。

それは極端な例だけど、外で食べるときは、本当に好きなメニューを、なるべく近場で食べるべきなんだな。そして、通って、その店とメニューとすべてひっくるめて好きになるべきなんだな。

わたし、ただ、のミーハー♪

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わたし、ただ、のミーハー♪
15年ほど前、かたくなにミーハーに「アドレス」にこだわって、麻布という住所(属性)がほしくて麻布のはじっこに越したおかげで人生ががらりと変わった。やっぱこだわってよかった。俺の人生の大きな分岐点だった。

実は、「三田」の賃貸マンションにほぼ決めかけていた。物件そのものは、よかった。奥さんはもうここでいいでしょって感じだったんだけど、なんか釈然としないものが。。自分のこだわりを大事にしろよっていう心の声が、けっこう強くなった。オマエのこだわりは住所(だけ)でしょ、と。

いや、三田の方には大変申し訳ないんだけど、田舎もんには響かないんだ、「三田」は。麻布じゃないとダメだったんだ、当時の俺は。距離にして数百メートルしか離れていなかったのだが。

珍しく奥さんに「反抗」w して、三田のマンションは不動産屋に断りをいれ、仕切り直しになった。そこから数ヶ月して三田のマンションよりひろいもんの賃貸マンションを見つけることができた。


だんだんとそういうミーハー精神はうすれてきて、今んとこに引っ越すときは、実は銀座がよかったんだけどw そこまでアドレスにはこだわらず、ふつうに多角的に物件の質と家賃との兼ね合いで決めた。
銀座には、自転車でいけるということでOK。


でも、最終的には千代田区に「還ってくる」のだと思っている。自分は。
千代田区ってのは自分が、人生を「立て直した」重要な場所なんだ。(もちろん職場ってことね)

「電力と私」

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「電力と私」
ここでこっそりと問題提起をさせていただきますが、この国の情報通信産業というのは原子力発電技術の進化と東電の電力供給量の増加がなければ決してここまで発達しなかったのではないですか。我々は十二分に原子力行政の恩恵を受けてきたのではないですか。情報通信産業の黎明期とこの国が原子力発電へシフトした時期というのは奇妙に符合しませんか。(これは推測です ほぼてきとうにいってます)

日本の通信のブロードバンド化は、原子力発電のおかげで日本の隅々への電力供給が空気のようなものになってきてはじめて実現し得たものではなかったですか。

我々が創出している(つもりの)「システム」というのはサーバの電源をOFFってしまえばすべてブラックアウトされてしまうぐらいの儚いしろものではないですか。ソースコードを媒体で納品してもそれを表示させ、実行するのに電気が必要です。そして納品ドキュメント(完成図書)だけでは絶対に、システムは動きませんので。

ざっくりいってしまえば我々がおまんま食っていけるのはここ20年ばかし電力が安定供給されてきたから(その遠因に原子力発電所の増加)ということですよね。



さて、私たちがつくって、維持している電気じかけの「システム」というのはいったい、何なのでしょう? それはもしかしたら、無機質で寒々としたサーバルームに整然とマウントされ、うなりをあげているサーバそのものなのかもしれませんね。特に私個人はインフラ屋ですので。。



だからこそ、今こそ、劇的なパラダイム・シフトが求められているように思うのです。業界そのものに対しても、業界に棲息する私たち個々に対しても。

そのパラダイム・シフトについてはエンジニアライフのほうで、「健康」というキーワードを軸に議論を展開してゆくつもりでおります。すぐに結論が出る話ではないので少しずつ。。

地震の1ヶ月前からエンジニアライフの連載を始めさせていただけたというご縁、僭越ながら自分のテーマ(いってみれば「パラダイム・シフト」そのものです)について述べさせていただける機会を得たという事実は、その1ヶ月が助走期間であったと勝手に解釈すれば、私にとっては非常に運命的なものであったと感じざるを得ませんでした。(後付けかつこじつけだということは重々承知しておりますが、僕はそう解釈することとしました)

「飛び出す」感じをつかめ

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「飛び出す」感じをつかめ
「抜ける」ことが大事だと書きました。満員電車から降りた瞬間に「抜け」て、集団に飲み込まれずに飛び出すこと。

 実は、早足で歩いたり走ったりといったフィジカルな(そして、ごく一般的な)健康法よりも、この「飛び出す」感覚の方がリアル健康法として重要視しています。

 まず、フィジカルコンディションをいくら整えたところで、ネガティブな気持ちのままならばリアル健康にはなれないのは自明です。前回書いたように、朝のお作法(通勤)をルーティン化することにより毎朝毎朝集団から「飛び出す」ことを続けてみて、この飛び出す「感じ」を自分の中で「つかむ」ことができれば生活が少しずつ変わってきます。すくなくともポジティブにはなれます。

 いえ、ポジティブになれるというよりは「少なくともネガティブにはなりえません」といった方が正しいかもしれません。



 ここでちょっと、ごくごく当たり前のことを書きます。

 朝の通勤電車には何百人何千人、あるいは何万人というビジネスマンが乗っているわけですが、もし全員で短距離走をしたら、あなたも私も、絶対に一番にはなれないでしょう。朝の満員電車に乗っているビジネスマンの中には、体育会系陸上部だった方とか、全国大会に出たとか、そういう猛者もいらっしゃるかもしれません。

 ところが、です。元陸上部だろうが日本記録保持者であろうが、皆が歩いているという前提であれば走って抜き去ることができるのです。つまり、朝の通勤時間帯、という限定されたシチュエーションであれば私でもあなたでも一番になれるのです。私が申し上げたいのは、単純に、「100%(一番に)なれるもんならなっときましょうよ」ということです。



 と、いうことを書くと、「……で?」「それがなんか意味あんの?」といったような反論が予想されます。意味は、あると信じて(実際あるので)とにかくまずやってみていただきたいと思うのですが、実はその、(素直に)まずやってみる、というところからしてリアル健康になるための訓練の1つなのです。

 意味(あるいは、自分にとってのメリット)をいちいち確認し、納得しないと前に進まないタイプの人に健康な人は少ないのではないかと私はにらんでおります(ただしまだ、論証はできていません)。



 どんなグループであろうが、どのようなカテゴリであろうが、どんなルール下であろうが、一番になるのは、精神衛生的に非常に良い効果をもたらします(簡単にいえば、「良質な自信が形成される」ということです)。

 私たちは、ふだんからあまりにも集団に飲まれてしまっていて、この「一番になる」(あるいは、「大多数」という集団を飛び出して少数で先頭集団を形成する)という経験が非常に少なくなっています(大人になればなるほど)。

 だからこそ、自分、特に脳に対してそういう経験をさせてあげなければならない。脳というのは実は(おそらく)シチュエーションをよくわかっていないので、「一番になる」という結果だけを経験させてあげればそれでよいのです。

 例えば、なんとかマラソン大会とか陸上大会で一番でテープを切るのも、フットサル大会でゴールを量産してヒーローになるのも、ライブハウスで満員のオーディエンスにキャーキャーいわれるのも、どれも「飛び出す」感じの実経験であり、とても気持ちの良いものなのでしょうが、今の私たちには、実現させるにはとても難しい。かといって、現在私たちが属するこの業界で、仕事の面で1つ頭抜けて飛び出して脚光を浴びたり、時代の寵児になるのはもっと難しいかもしれません。私たちの業界はほんの一握りの才能と、商売のうまい人たちによって牛耳られていますので……。

 ですので、「自分が一番になる」シチュエーションを、つくるのです。自分が絶対有利のシチュエーションをつくってそこでトップになる(他人に迷惑がかかったり、顰蹙をかったり恨みをかったりするようなシチュエーションでないことが前提)。一番になり続けて集団から「飛び出す」意識づけをしていきます。

 私が1つの例としてここで提示したのが、「朝の通勤時間」というシチュエーションでした。自動改札をゴールと決めて、電車からぱっと飛び出して一番で「ゴール」してみる。自動改札をくぐる瞬間には、自分がどこかの陸上競技場において満員の観衆の前で一番でゴールテープを切っているような情景をイメージしてみる(誰も私やあなたのことを見てはいませんが、朝は「観衆」だけはやたらにいますから……)。

 これなら、できるのです。実際に何百人あるいは千人単位の集団の中で「飛び出す」ことを実践できています。(2~3人の中で一番になる体験を積み重ねていくのも、悪くはないのですが、そこにずっととどまってしまったらあまり意味がないかもしれません)。



 通勤電車では99%以上の人が、競争などする気はさらさらありません。超混みの電車にもまれて身心ともに疲れている状況で、競争する気など起きないでしょう。という状況下で、自分だけが勝手に競争している気になって、電車から降りてダッシュで自動改札を駆け抜ける……。

 はたからみれば、その光景も、誰も競争する気のない状況で自分だけやる気満々という状況も、ちょっと滑稽かもしれません。でもいいのです。周りに迷惑さえかけなければ。

 「誰も競争する気のない状況」を見つけるクセをつけておくと、ビジネスでも役立ちます。ニッチ産業というのはそういうところから生まれてくるわけですし、そういう状況を目ざとく見つけることのできる人(プラス、強い実践力を持つ人)が一儲けできるのです。



 自分が、いろいろな集団に属する中で、そこでナンバーワンになれないからといってすねてしまって、自分は「『オンリーワン』だから!」と競争から降りてしまうのは、とてもよくない逃避です。

 肝要なのは自分が一番になるシチュエーションを自ら創造する姿勢です。朝の通勤時間は1つの、私が勝手に提示した例にすぎません。電車でなくとも、渋谷のスクランブル交差点で青になった瞬間に「飛び出す」でもよいのです。

 前回も書きましたが、こういうことを馬鹿にせず、ぜひやってみていただければと思います。自分が一番になったり「飛び出す」イメージを完全につかむことができれば、現実生活ではいつの間にか社長になっているかもしれません。世の中そんなものです。

テレビに対する信奉

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テレビに対する信奉
たぶん力道山の時代~高度成長のあたりにテレビを見始めている連中は、テレビを「信奉」しきってると思うのね。揺るぎない。

だってさ、「巨人大鵬卵焼き」(+自民党)だもんな。そういう時代。日本が安定成長することがデフォルトだった時代。。(ある意味異常?)


で、今のテレビ局はその「固定客」をおおいに利用してきたんだな。バカにしつつ。テレビ業界にアタマのいいヤツらがどんどん入るようになってきて、愚民と体制側(マスコミ)のオツムの差が激しくなってきた頃から、愚民はどんどん踊らされるようになってきた。思うがままに踊る。笑ってしまうぐらいに。

踊る側は、一言だけいうのかもしれん。「いやわかってるんだけどさ」と。わかってんならやめろよ!

イメージとしては。。巨大なダンスホールで、愚民がエンドレスで踊っている(踊らされている)イメージ?
それを操っている、上からみている支配階級がいる。で、「パーティにようこそ!」と。ふつうの客(踊らない)に対して、盛況をアピールするわけね。客は、「コイツすげえんだな、こんなに人を集められるんだな」と。まんまとイメージ操作成功。
つまり、俺らはサクラなわけ。

で俺ら愚民は、苦しんで踊らされてるわけじゃないんだよ。楽しげな音楽が流れ、周りもそれなりに楽しそうに踊っているようにみえ、あれ、これってけっこう楽しいんじゃ? なんて錯覚を起こす。
「踊らされ」てるのに。

この例え、わっかるかなー。愚民は「楽しければいい!」と言う。それを支配階級が逆手にとり、「楽しくさせてやってるからいいだろ?」と懐柔する。

この洗脳を解きたくとも、体制側にいるアタマのいいやつの手法があまりに巧妙狡猾になってきているから、ちょっとやそっとじゃ仕掛けに気づかない。
気づいたとしてもすでにぬるま湯につからされているから、もう出られない。


でもね、俺ら(世代)は違うと思ってるんだ。俺らの下の世代はもう完全に、体制に従順だから。(身なりは派手だけど)ケータイ中毒、ネット中毒(良いことばに置き換えれば「ネイティブ」)
わざわざ洗脳されにいってるようなヤツらはかまっちゃいられない。

俺らは洗脳から抜けられる。かつては、もっとも中途半端な谷間の世代だったはずが、もっとも可能性のある世代に変わりつつあるのだ。俺らが中心となって日本を変えてゆける、というね。
いや、俺らしかできないんだよ。

洗脳(医療)

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洗脳(医療)
身体に異変を感じたら、まず医者にいったほうが、とか、風邪をひいたらすぐ薬飲めとか。。

そういうの全部洗脳だから。

なんでそんなに、自分の身体についてアウトソーシングするかねえ。

ホントは、まずは、自分の生活習慣をあらためること。そうすりゃ、そういう変調はほとんど起こらない。

とはいえ風邪は、ひくだろふつうに。風邪のときは風邪に身をまかす。大丈夫、風邪ぐらいで死なないから。でも断言はできないな。生活習慣くずれまくってるヤツが風邪をひいて、放置してたら死ぬかもしれん。風邪っていうのはリトマス試験紙になりうる。

風邪のときは自分(意識上の)の代わりに身体が風邪と闘ってくれているのだから、委ねるべき。


身体とじっくり対話するクセを、つけておかなければならないんだ。身体に対して「どうしたの?」とといかける。(心のなかでな! 口に出すと変人とおもわれる)

身体と会話しただけで治ったりするんだぜ。ホントだよ。身体が、話を聞いてほしかっただけかもしれないんだ。
あ、これも、生活習慣がそれなりに整っている前提なんだけど。。

身体に異物をいれすぎて(ジャンクフードとか)異変が起きているのであれば、病院にいったほうがいいかも。それは西洋医学の領域だから。その異変は西洋医学が得意とする領域だから。


ところで、外傷はまったく別よ。骨折だの捻挫だの怪我だの。そういうのは即医者。それはあたりまえ。
自分の記事の引用
食について(5) 次世代に引き継ぐ習慣
 年がら年中、健康について考えておりますので、自然と、自分が口に入れる食べ物について深く考えることも多くなりました。自分にとってはとてもよかったと思っています。

 この業界で、「食べること」について(いわゆる「グルメ」ではなく)これほど深く考えている人間は少ないと思います(笑)。

 食べることについて「考える」とは、必ずしも「気にする」とイコールではありません(似てはいますが)。そのあたりについてはいずれ書きます。



 本題に入る前に、ちょっと思い出したのですが、IT業界ってけっこう食べ歩きが好きな方が多いような気がしますね。既婚/未婚、関係なく。

 どうしても不規則な生活になるゆえ外食率が高いのは当然ですが、どうせ外食するならおいしいものを! ということで外食の質を高めようとするのだと思います。私も昔はそうでした。

 食べ歩きというのが健康に必ずしもよくない、というのは当然なので今回触れませんが(ただし、連日でなければそれほど目の敵にするものでもありません おのおののお金が続くのであれば……)、もうひとつ重要な問題点は、料理を作らない人たちが食べ歩きをしていると、どうしてもただの批評家(=グルメレビューア)になってしまうということです。

 ラーメンのスープがどうのこうのとか、煮干しだとか昆布だとか、よく分かりませんが……。とにかく、細部にこだわる。ほんのちょっとの差異を異常に喜ぶ。(「違いが分かる男」になれるから?)そしてそれを嬉々としてブログやSNSなどに報告する。

 でも、考えてみると、批評家体質というのはこの業界に合っているのかもしれないと思うのです。

 ちょっと長くなりそうなので、このあたりの関係性についても、機会があれば書きたいと思います。



 前回ちょっと触れましたが、私が最も強く申し上げたいことは、「次の世代につなげる動きをしましょう」ということです。

 この業界に棲息していれば自然、外食率が高まります。ということは、子供たちも親のそういう姿を見て育つわけですね。

 典型的なエンジニアのサラリーマンの方を例にとりますと、多くの方々は外で残業飯を食べます。それは、コンビニ弁当であったりハンバーガーであったり定食屋であったり、形態はさまざまですが、とにかく日常的に、夜の残業に向けて臨戦態勢、腹ごしらえをします。そうでないと仕事になりませんからね……

 そして帰宅後にまた食べる方、食べない方、ちょっと飲んでつまみを食べる方など、さまざまだと思いますがいずれにせよお子さんは寝ている時間だったり、寝ていなくとも、エンジニア・ライフ(パパ編)においては、平日に家族で食卓を囲むというシチュエーションは想定されていない(笑)わけです。

 それは、おそらく仕方のないことです。ですが、おぼえておかなければならないのは、子供らはそれを見て育つので、高い確率で親になったら同じことをするのだろうな、ということです(いわゆる「エンジニア」にならなくとも、そうなる可能性が高まる)。



 ランチも、この不況下であっても手弁当ではなく、外に食べにいったり弁当を買ったりする方が、私の知っている範囲では驚くほど多いです。

 そう考えるとけっこうお金を使ってますよね。

 さらに、朝はほとんど食べない、と……いうことは、1週間の全食事数のうちかなりの割合を外食が占めているということですね。また、多くの皆さんは土日に家族サービスを「強要」されるので、家族でお出かけするとなると休日もまた外食店……となります。



 外食が多いと貯金がたまらない、という問題もありますが、今回書きたいのは、「そういうふうな食事習慣に舌が慣れてしまうのは大変な問題である」ということなのです。

 実際問題、(既婚の場合)奥様のつくる手料理は物足りなくなってくるのではないでしょうか?

 誤解のないように付け加えますと、物足りないというのは技術ではなく「味付け」のことです。あの特有の「しょっぱさ」や化学調味料の味付けに慣れてしまうと家でもそれを求めるようになってしまいます。そこから、何かしらの発病へ向けて負のスパイラルが始まります。

 それが、「依存症」ということなのです。



 1つ補足すると、なぜ外食過多が病気のリスクが高まるかといえば、きわめて高い確率で、「運動不足」もセットだからです。

 家に帰ってごはんをつくって食べる時間がない、あるいは奥様の手料理を食べる時間もない、という方が、定期的に運動をする時間を捻出するわけがないので……。



 当然子供への影響も、出てきますよね。父親が外食中心の生活になっていることにより家庭において外食「っぽい」味付けを求めるようになれば、子供も自然とそういう味付けを好むようになります。

 すべての家庭がそうだというわけではありませんが、「外食っぽい味付けを好む」のであれば外食のほうがよいわけで、家庭の主婦がプロのシェフに勝てるわけがないのですから、子供は外食を望むようになってきます。やがてママさんは料理をつくるというモチベーションが低下して、外で食べさせる、あるいはケータリングとか、自分でつくるにしても冷凍食品が増えたりとか、そういう傾向が出てきます。

 これは、かなり大きな問題なのです。そしてこの問題を生み出すのは高い確率で父親の味覚なのです。



 我々の世代の多くは、子供の頃、家庭は「外食体質」ではなかったはずなのです(そういう「時代」でした)。

 それが、自分が忙しい業界に飛び込み、いつの間にか外食中心の生活になることによってそれが当然(「豊か」?)であると思い込み、自分の子供に自分が育った時代とは違う習慣を植えつけてしまう。そしてその習慣の多くは、過去よりも悪い習慣です。たとえば遅寝遅起き、朝食抜きであったり。

 若干の無駄遣い体質も、子供に引き継いでしまうかもしれませんね(我慢が効かない、なんでも手にいれないと気が済まないという……)。



 親になれば、多くの親たちは子供は自分より出世してほしいと願ったり、良い大学に入れたいなどと考えたりするもので、それはとても自然なことです。

 であれば、それにふさわしい生活習慣を子供に植えつける必要が、絶対にあります。そして、この業界のエンジニアの方々の生活習慣(自分たちの子供時代より悪くなっている)がそのまま次の世代の子供らに植え付けられたならば、間違いなく彼らは自分たち(親)を超えることはないでしょう。

 子供に自分らを超えてほしいと願うのであれば、自分たちが子供の頃の生活習慣をさらにブラッシュアップして、それを手本にしつけをしなければなりません。改悪するのはもってのほかです。

 そして当然のことですが、子供が自分たちと同じように「ふつう」に育ってほしい、ごくごく中流の大人になってほしいと願うのだとしても、だからといって子供の生活習慣形成をなおざりにしてよいという言い訳にはなりません。

 親が良くない生活習慣のままで、子供らに良き生活習慣を強要したところで、示しがつきませんので言うことは聞きません。

 もしかしたら、突然変異が生まれることを期待している方もいるかもしれませんし、期待するのは自由ですが、あくまで確率としては極めて低いことは認識しておいたほうがよいと思います。